連載第八十一回

戦後、新聞記者として現場の生々しい声を直接に聞きとめながら、しかし報道記事は実に簡潔に言葉を切り詰める。筆者は「整理部記者」として長年にわたり、現場の記者から送られてきた原稿をさらに切り詰めてきた。
そうした取材活動による報道の外側に残された言葉、そして記憶の数々…。
時にユーモラスで、時には厳しい現実を反映する筆者の言葉は、ここでは主に報道されない(されなかった)視点から、過去から現在まで、練達の文筆技術で簡潔に語られます。XYZ必読ページ。ご一読を。
 2009年 2月 1日号(連載第八十一回)
最新版クリック(No.81)

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 第一回・2002年5月1日号第五十六回・2006年12月1日号まで






薄氷の食自給率40%

 地球がふるえている。アメリカ震源の大不況は猛威を保ったまま年を越えた。新年もお
先き真っ暗。そんな中でもう一つ気になるのが日本の食事情である。自給率僅か40%。海の向こうの異変はすぐ日本列島に襲いかかる。昨年、小麦、とうもろこしなどの収穫減は、パン類、牛乳、卵などの値上げを呼んだ。記憶に新たなところだ。輸入に頼る日本のアキレス腱である。
 年頭に考えた。もしも輸入に頼れなくなった場合、日本はどうなる? それこそ“飢餓日本”戦中戦後の配給時代再来となろう。思い返すだけでも慄然とする。

   「この米は没収だ」
 取調官の前で女性は哀願する。
 「このお米は命です。没収しないでください。私は牢屋に入ってもいいです」
 昭和20年代中ごろ、駆け出し記者の目に映じた光景。今でも鮮烈によみがえる。
そのころの日本はまだ米をはじめ多くが配給。その米配給量だけではとても空腹を満たせない。やむなく闇米に手を出す。それも目の玉の飛び出るほどの高値である。しかも簡単に買えない。生産地を訪ね農家に拝み倒しで手にするのだ。
闇米は当然法律違反で罰せられる。みんな知ってはいるがあえて法網に挑む。この女性もその一人だった。
女性は35歳。夫と子供2人。主人に定職なく彼女の稼ぎが家計を支えていた。上の子は小学校3年の男子、下が5歳の女子。
悪夢の1日を再現しよう。
晩秋のこの日、休日を利用し上の子と闇米の買出しに出掛けた。浜松市の郊外の農家で幸い5升の米を買うことが出来た。量が多いと目立つので、自分のリュックサックに3升、残り2升を子供のリュックサックに入れた。売ってくれた農家に最敬礼をして帰途についた。

   ああ無情!
「たくさん買えてよかったね、さ、早く帰ろう。取締りにあわないように祈りましょう」
その祈りは空しかった。
愛児と手をつないで浜松駅に着いた2人を待っていたのは、一斉取締りの無情な目であった。
「その女性、ちょっとこちらへ」
改札口を出ようとした女性の肩は警官の強い力でぐいと引き寄せられた。途端に彼女は足がすくみ動けなく棒立ちとなった。
「その中身は何かね」
黙する女性に警官は続ける。
「米だね」
小さくうなずく彼女。
「その子も一緒に署まで来てもらう」
駅前に待機の大型ジ−プに乗せられた。すでに青ざめた数人が沈痛な面持ちで二人を迎えた。やがて車は本署へ。薄暗い廊下で待たされたあと係官に呼ばれた。
「リュックの中の物を出しなさい」
二つの布袋に入れられた白米は動かしがたい証拠物件。
「これは配給の品ではないね。どこから買ってきた」
取調官は慣れたもので、彼女の言を調書に書き連ねる。こうして出来上がった調書を読み上げサインを求める。
係官も相手が素人か常習犯かはすぐに分かる。悪質でない限り逮捕せず書類送検となる。そして闇米は没収され、後日「略式命令」の罰金が科せられる。不服の場合は公判請求し法廷闘争に持ち込むことが出来るが、ほとんどは泣き寝入り。
「では、きょうはこれで帰ってよし。法に背くこの闇米は没収する。今後このようなことのないように」
(初犯は、概ねこのようなパタ−ンで取調べは終わる)
係官のこの言葉に、今までうつむいたままの彼女が急に正面を向き、冒頭の哀願となった。通常、取り調べは個室で行われるが、一斉取締りのような場合は軽犯者が多いためこういった形をとるようだ。
彼女にしてみれば、大金を出しやっと手にした米である。自分は拘留されても米だけは我が家へ届けたい。切ない気持ちがそのまま係官にぶつけられたのだ。不安の眼でそれを見つめ続ける小学校3年の子供。
彼女は空になったリュックサックを背負い、子の左手をぎゅっと握りその場を去った。いいようのない怒り・無念が後ろ姿にこめられていた。
(このような取り締まりは絶えず行われ、没収された食品の山は絶えることがなかった)
その夜、支局長と夕食を共にしながらあの場景を話した。
「母親の願いを耳にして、身を切られる思いでした。取締官自身、闇米を口にしたことはないんでしょうかね」
「そんなことはないさ。今時、配給だけでは食っていけない。現にオレだって農家に買出しに行ったことが何度もある」
「それなのに、あんなむごいことを平気でしている」
「平気でしているわけではないと思うよ。彼らだって辛いのだ。だが、それをやらざるを得ない立場にあるのだ。挙げられる人々の多くは善良な市民だが、中には暴力団がらみの常習犯もいるから取締りをしないわけにはいかないんだろう」
そのころ、闇市に行けば、白米でもなんでも買えた。すべて闇のル−トで入ってくるのだ。そういう組織的な集団は法網を巧みにかわし、懐を豊かにしている。かつて、「闇の品に手を出すことはできない」として餓死した判事がいた。

  これでいいのか日本の食事情
戦後すでに60年以上経った。飢餓時代を生き抜いた人々も数少なくなってきた。
今、食糧危機が世界各地で起きている。心ある日本人は不安感を強めている。それなのに、日本の農地は減りつつある。耕作放棄地の増加だ。その面積は約38万ヘクタ−ルで、全農地の10%に近いという。
農地無くして食料を生むことは出来ぬ。自給率40%の日本、せめて10%から20%増に持っていけないか。耕作放棄地をなぜ眠らせておくのか。原因はいろいろあるようだが、要は為政者に危機感があるかどうかである。新年度予算案では、選挙を意識したバラまきが色濃く感じられる。これでいいのか日本の政治。
「国民の目線で国家大計を!」 
声を大にして叫びたい。   

 (2009年1月1日)                 
     


酒を裁く

 先日、毎日新聞の夕刊社会面に「ウ−ン」とうなりたくなるような記事が載っていた。神戸地裁でのことである。それによると――。
 愛知県犬山市に住む36歳の無職女性に関する詐欺事件である。彼女は3月16日午前、神戸市内のホストクラブでシャンパン11本(20万円相当)を提供されたが支払えず、店の通報で現行犯逮捕された。公判では、追加注文10本分の支払い意思の有無が争点になった。裁判官は懲役2年の求刑に対し無罪を言い渡した。その判決理由が私をうならせた。被告の女性は、逮捕時に呼気1リットル当たりのアルコ−ル濃度が0・51ミリグラムと高濃度だった。ここに裁判官は注目した。酩酊状態にある被告に意思確認が不十分なままシャンパンを提供した可能性がある、というのである
 詳しい状況は分からないが、酩酊状態と10本のシャンペン追加の蓋然性に絞った裁判官の判断に、共感を覚えた。それというのも、こんな苦い経験があるからだ。

   ボ−ナスを懐に
 昭和29年(1954年)夏のこと。独身という身の気楽さから、毎晩のようにアルコ−ルに浸っていた。その日は代休だったが、ボ−ナス支給日なので受け取るためにわざわざ出社した。今と違って振り込みでなく全額現金である。いつもよりぐっとふくらんでいる袋を手にしたのは日が沈むころ。
 きょうは久しぶりに羽を伸ばそう、そんな甘い夢を抱きながら札束を数え今晩必要と思われる額だけを財布に移した。あとは袋に残したまま内ポケットの奥深く入れ丁寧にボタンで閉じた。
 外へ出るや、真夏の熱気が身体を包む。会社から有楽町駅までは数分だが、額には汗がにじむ。
(まずビ−ルだ)
足は行きつけの赤提灯の暖簾をくぐっていた。
いつもはこの店で一番安い梅割り焼酎か2級酒で満足するが、ちょっとぜいたくして大ジョッキの生ビ−ル。さすがにうまい。五臓六腑にしみわたる。2杯目を飲み干したころにはほんのりと酔い心地。肴もステ−キ、マグロの刺身と当時としては大奮発。
今度は清酒に切り替えた。それも最上級の特級酒。舌の上でころがしながら美酒のとりことなる。2本の徳利を空にして立ち上がった。時計は8時を少し回っていた。勘定は予想外に安かった。
(まだ時間はたっぷり、財布もあたたかい。もう1軒行くか)
 これがいけなかった。

  頼まない高級ウイスキ− 
いつもは友と一緒に流れるが、たまには一人もいいものだ。もうちょっとぜいたくしよう。駅まで行くのが面倒になりタクシ−に乗り込んだ。
降りたところは池袋の繁華街。酔い覚ましに少し歩くうちにおねえちゃんの誘い。
(こういう手に乗るべからず)
かつて暴力バ−でひどい経験をしたことがあるだけに戒めていた。この日もそれを振り切っていったんは行き過ぎた。しかし彼女はあきらめずについてくる。
「ちょっとだけ話を聞いて」
やむなく立ち止まった。20歳前後の長身でうぶな感じ。厚化粧もしていない。
「うちはちょっと高いけど安心できるお店です」
確かにその店構えは堂々としていた。怪しげな店の気配はない。
 (この店なら大丈夫かな)
 怪しげな店は照明を暗くしているが、ここは中も明るくゆったりとしていた。カウンタ−でなくボックスに案内された。すると、さきの女性のほか2人の女性が現れた。
「何になさいますか。うちには上等のウイスキ−をいろいろ揃えています」
「どんなの?」
待っていましたとばかりに、高価な洋酒名を並べた。
そのころ、洋酒は店頭になくいずれも闇ル−トでしか手に入らない。ジョニ赤・黒、オ−ルドパ−、シ−バスリ−ガル、ホワイトホ−ス、カミュ−、ナポレオンなどなど。比較的安いジョニ赤とホワイトホ−スは口にしたことがあるが、あとは高嶺の花。
「なに、ナポレオンもあるの?」
うっかり聞いてしまった。
「もちろんです」 
すっと年配の女性が立ち上がった。
「いやいやまだ」
と言いかけたがもう遅かった。
女性は『ナポレオン』1本を抱くようにして持ってきた。同じナポレオンでもこれはブック型だ。A5版の大きさで最高級と言われる。白地の陶器にカラ−でナポレオンが描かれている。ひと目で超高価と分かる。
「これがナポレオンです」
「オイオイ、そんな壜ごといらんよ。第一、オレは未だ正式に注文してないのに持ってこられては困るよ」
これだけ言うのが精いっぱい。
「だってお客さんは注文したのよ、ね−」
同席の仲間を見る。
「そうよ、おね−さんの言う通りよ。それにもう封も切られているわ。楽しく飲みましょう」
見ると、すでに封は切られていた。
(いけない、またやられた。早く逃げ出そう)
こちらの戸惑いをよそに、グラスには琥珀色の液体が注がれた。彼女らもそれぞれナポレオンの入ったグラスを手にしている。そして
「いただきま−す」
やむなく一口飲んだ。強い味が口中に広がるがどうもなじめない。
(ナポレオンは初めてだが、安物の味だ。中身を入れ替えたのでは? そうだ、最初から栓は抜かれていた) 
一瞬、背筋に冷たいものが走った。
「勘定にしてくれ」
私は立ち上がっていた。
英単語学習に使うような白いカ−ドに書かれた数字に足が震えた。開きなおろうと思ったが抑えた。表沙汰にしたくなかったからだ。
冒頭に戻ろう。酩酊女性は私の場合と似ている。50年以上も前と同様な手口がまだ生きていた。きょうから師走。忘年会も花盛り。楽しい酒で今年を締めくくりたい。しみじみ思うのである。


(2008年12月1日)





納得できぬ上告棄却

   裁――
 平成17年(2005年)、静岡市内で起きた静岡大学生(当時)による2女性殺害事件に対し最高裁はこのほど上告を棄却、死刑を回避した一、二審判決「無期懲役」が確定した。東京高裁判決のあと判決理由に納得できず、私なりに問題点を指摘した。しかし最高裁も検察が主張する「死刑適用」を退けた。そこで再度この事件を検証してみたい。
 
   事件の経過
 事件は平成17年1月28日午後5時過ぎに起きた。静岡市葵区、Sクリニック内の健康関連用品販売店で従業員の井本嘉久子さん(60)と竹内真知子さん(57)=いずれも当時=が刃物で首を切られ殺害された。また店内にあった現金約6万6千円が奪われた。
 3日後、捜査線上に静岡大学生の高橋義政容疑者が浮かび逮捕されたが、頑強に犯行を否認し続けた。それが静岡地裁での初公判直前になって、一転犯行を認め公判の罪状認否でも殺害について認めた。 
 高橋被告は、知人の女性がSクリニックにかかっていたが好転せず病死したことを恨み復讐を計画した。そして犯行当日の午後5時ごろクリニックへ侵入した。懐中には凶器のナイフをしのばせていた。
 当日、院長は留守で、建物内には健康関連用品販売店従業員・井本さん、竹内さんの2人しかいなかった。院長不在を知った高橋被告は口封じのため所持のナイフで2人の首を切って死に至らしめた。そして、販売店の売上げ金を奪い逃走した。

   死刑回避の判決理由
一、 二審と最高裁ともに「関係ない2人を殺害した犯行は冷酷かつ残虐で死刑の選択も考えられる」としながらも、無期懲役の判決にいたった理由として次の諸点をあげている。
「犯行について反省している」「幼少のころ親の虐待を受け、その不遇な成育歴が偏った価値観を形成」「2人殺害について計画性がない」「年齢も若い」。

   私の反論
 これらの点について私は反論を掲げたい。
 まず、「犯行を反省している」である。
 高橋被告が初公判直前になって犯行を認めたのは、検察側に彼を黒とする有力な物的証拠がそろっていることを知ったからではないか。否認の態度を崩さない場合、反省なしとみられる。そうなると極刑につながる恐れ大である。それを避けるためには、犯行を認め反省の態度を示すこと、すなわち情状にすがる“作戦”を編み出した、と私はみたい。
 一審が後半に入ったころ、彼は裁判長に申し出た。
 「遺族にお詫びを申したい」
 許可を得たところで、彼は遺族が座る傍聴席に向かって土下座し頭を垂れ詫びた。
 だが、この悔いる姿のあと彼は一瞬、口の辺に“笑み”(らしきもの)を浮かべた。遺族席の一人がそれを見逃さなかった。裁判長席からはその表情は見えない。私はこの日、傍聴していなかったので、真偽のほどは分からない。しかし土下座の詫びは裁判長の心証に大きくプラスしたことと思う。
 これは被告側の作戦を確かなものにするのに役立ったとも言える。
 舞台が東京高裁に移ってから、私は遺族席で1回も欠かさず傍聴した。遺族席は裁判長席に向かって最前列の右側から5〜6席用意されていた。看守に連行された彼はその右側入り口から入り我々遺族席の前を通って被告席に着く。だが、彼はその往復に詫びの表情ひとつ浮かべることは無かった。
 改悛の情あり、とは到底思えかった。
 次に「不遇な成育歴」。
 確かに彼は親の虐待で、それがトラウマになっていたようだ。育ったその環境は同情に値する。しかし彼は少年ではない。犯行時は大学4年生だった。ものの善悪の判断力は十分身につけていたはずである。たとえ、尊敬していた知人の死を恨むとしても復讐することは許されない。ましてや復讐実行対象の院長不在を知るやその凶刃を全く無関係の2女性に向けた。口封じのため、それだけの理由である。トラウマを情状の要因とするには説得力に欠けるのではなかろうか。
 そして問題になるのが「計画性が無い」だ。
 この凶行をみて、「計画性が無い」と言えるだろうか。彼は「院長殺害」を計画した時点で、あらゆる場面を想定したはずである。犯行時間が午後5時過ぎということは、クリニック内には院長以外の人物が残っていることも当然考えられる。それに備えて侵入したと推理できる。
彼にとって目指す院長はいない。2女性には顔を見られた。そこで用意したナイフを手にした。ここでの殺害は当初から計画のうちにはなかったかもしれない。しかし院長殺害を計画して侵入した彼。全く計画性のない発作的殺人とは言えない、と私は考える。
もうひとつ、「まだ若い」について。
彼は現在28歳、まだまだ若い。前途のある身である。矯正の可能性あり、と判断しての結果と思われるが、私の目には逆に映る。前述したように、罪を悔いている高橋被告ではない。私はむしろ彼の再犯を恐れる。
無期懲役は終身刑ではない。模範囚として努めれば10年そこそこで出所の例も過去にあったと聞く。もし彼の「改悛」が偽装であったとしたら慄然とせざるを得ない。

  『罪人よ、生まれ変わってくれ!』
 被害者の一人、井本嘉久子さんは私の義妹である。それだけに裁判の推移には特に関心を持った。死刑に関しては国際的にも批判の声が強い。しかしこの事件については極刑が相当と考えた。
 義妹は、戦争中の静岡大空襲で家を焼かれ炎の中をさまよいながら生き延びた。長じて結婚、一人娘も嫁ぎ孫の出来るのを楽しみにしていた。その尊い命を奪った犯人には強い怒りを感じた。凶器を振るう犯人の前での恐怖・無念は、想像を絶するものがあったであろう。それを思うと胸の痛みは消えない。同僚の被害者・竹内真知子さんのご遺族も胸中は同じと察する。
 死刑こそ2人の霊に報いるもの、との考えは今も変わらない。しかし法の裁きはそれを避けた。法治国家の一員として、これに逆らうことはできない。今はただ念じる。
 高橋被告が真に罪を悔い、出所後は「世のため人のため」になるような真人間に生まれ変わってくれることだ。

(2008年11月1日)
   



人相いろいろ夜長を楽しむ


 秋本番。夜長を楽しむ季節である。読書良し、美酒に酔うも良し。だが、占いに没頭するのも楽しい。かなり前からこの道に興を覚え我流の占いをしている。一般的な占いのほかに医学的な要素も多く加えているので健康管理にも役立っているようだ。当たるも八卦、当たらぬも八卦。ひとつ挑んでみませんか。

   友人の唇に異変あり
 10年以上前のことである。久しぶりに会った友人の唇が紫色に変じ生気がない。その後しばらくして会ったが薄赤色の健康色に戻っていない。ズバリ聞いた。
 「体調はどう?」
 「別になんともない。酒もうまいしタバコもうまい。これからうがいに行かないか」
 我々の間では「うがい」は「一杯飲もう」である。
 彼の健康を心配したのに、逆に誘われることになってしまった。誘われれば「ノ−」とは言えぬ。その夜はついに“はしご酒”。
 あくる朝考えた。彼の呑みっぷり、食べっぷりは健康そのものだ。しかしあの紫色の唇が気になる。
 正常の唇は鮮紅色とされている。これが紫色に変わることをチアノ−ゼと言うが、原因は血液中のヘモグロビンとか酸素の量に異常が起こることによる。心臓循環器系統が悪い時、呼吸器疾患の時、それに血液そのものに異常がある時に見られるようだ。
 彼とはその後、何回も会うが紫の唇は変わらない。しかし彼は相変わらず不摂生な生活を続けていた。
 (どうみても病的な唇の色だ。直接彼に言うべきだ)
 いつものように彼の馴染みの店で盃を交わした。酔いが少し回ったところで口を切った。
 「以前から感じていたことだが、君の唇がちょっと気になるんだ。紫色に変色し、ずっと続いているね」
 「あっ、これね。でもなんともない」
 「オレ、かなり前から医学的人相占いをしている。それによると、紫色の唇は健康面で問題があると言われる。気をつけたほうがいいよ」
 「なに言ってるんだ、そんなインチキ占い。馬鹿げたことは止めちまえ」
 口の悪い彼は全く聞く耳を持たない。
 (これ以上言ったらケンカになってしまう。しばし様子をみよう)

   ついに病魔暴れる
 その後、何回か会っているうちに、今度は声に異変が感じられた。
「風邪でもひいたの?」
 「別に、元気だよ」
  だが、声は尋常ではない。
 (もう、躊躇すべきではない)
 「どうみても心配だな、とにかく1回医者に診てもらえよ」
 彼にしては珍しく憎まれ言葉も出ず、黙っていた。
 それから1カ月ほどしたころ、彼の入院を知った。咽喉ガンで手術は成功したがやがて全身に転移、黄泉の人となった。

   手の平と足の裏が赤い
 もう一つ“当たった八卦”の例。
仕事で知った中企業の社長さん。酒が好きで毎日晩酌を欠かさない。酒をめぐる付き合いで親密な仲になっていった。ある日、懇親会のあと二人で流れた。社長の愛人が経営する小料理屋。ご機嫌の社長が両手を広げてしゃべりだした。その時、社長の手の平が我が面前に。その手の平が真っ赤。はっとした私の目は瞬間に占いの目になっていた。
手の平が真っ赤、ということは健康面での黄信号と言われる。酒を呑むと赤くなる人もいるが、これは異常なほどの赤さである。
和室だったので、あぐらをかいていた社長はやおら靴下を脱いだ。その足裏を私は見逃さなかった。手の平と同じ真っ赤な色に包まれていた。
こういう場合、肝臓異変のシグナルと見る。肝臓は沈黙の臓器とも言われ、発見が遅れることが多いようだ。
人間の健康は色がいろいろ教えてくれる。唇の場合は紫だが、今度は真っ赤である。
 (社長に少し打診してみよう)
「ところで、社長という商売も大変でしょうね。健康でなくちゃ勤まりませんね」
「ええ、もちろんです。お陰でどこも悪くはないですが、ここのところちょっと疲れが残る感じ。でも休むほどのことはないですよ」
翌日、社長室へ電話を入れた。率直に赤い手の平と赤い足裏のことについて話した。そして、「といってすぐ心配することはありません。念のため医者に診てもらったら、と思ったものですから」
「ありがとうございます」
社長の声は沈んでいった。
1カ月ぐらいして社長から電話が入った。
「ご無沙汰しましたが、実はあなたの電話のあと病院へ行きました。肝臓が弱っているとのことで現在、通院を続けています。酒との縁も切りました。放っておいたら大事になるところでした。ありがとうございました」
 
  占いは総合判断 
占いは難しい。要は総合判断である。面相、手相のほか体型、指の爪、毛髪、足の先まで対象になる。医と一般的な占いには通じるところもあるようだ。ただ、相というものは 
絶えず変わる。したがって、「良い相」と言われても怠けてはいけない。逆に「悪い相」と言われても悲観することはない。手相の成功線、感情線、生命線などしょっちゅう変わっているようだ。
 面相で鼻を見てみよう。左右の鼻腔から顎にかけて片仮名の「ハ」字型に線が描かれているかどうか、この線の溝が深く鮮明ならば大成型と見る。有名人に多い。でも、生涯同じとは断言できない。
 私の占いは、毎日新聞出版局にいたころ内科医の志賀貢先生著『極意!医学的人相占い』刊行に直接かかわったことから始まる。志賀先生はクリニック経営の傍ら作家活動に入り、その第1作『医者のないしょ話』も私が手がけた。そんな関係で、人相占いにまで手を伸ばすことになった。そして、次第にその占いの“とりこ”になっていく私だった。

                             
(2008年10月1日)
 


陸上男子400リレ−の快挙

 北京オリンピックは、多くの感動が地球を駆け抜け終わった。日本選手の活躍に胸を打たれるものもいっぱいあった。その中で感動以上に、大きな驚きだったのが、陸上男子400メ−トルリレ−の銅メダルである。五輪史上日本の陸上短距離選手が日の丸を揚げたのは初めてである。今まで多くの選手が挑んだがその壁はあまりにも高く厚く堅かった。ゴ−ルの一瞬目を疑うほどだった。あとで知ったが、勝因は巧みなバトンパス(バトンタッチともいう)にあったようだ。走力をカバ−するための厳しい練習の積み重ねが快挙につながったのだ。
 リレ−でのバトンパスは極めて重要である。私自身、少年時代に失敗した苦い経験がある。それだけに今回の銅にはこみあげるものがあった。同時にきのうのことのようにあの悪夢がよみがえった。

   少年時代、あの悪夢
富士山麓の小学校時代、短距離選手だった私は学校対抗戦にいつも引っ張り出された。この大会は1年に一回開かれるので、各学校もそれに備えて選手を育成し猛練習を続けた。当時は戦争中で、軍国少年を鍛える意味でも重視されていた。本人もそれを誇りとしていた。4年生の時だった。
「今度の大会でのリレ−メンバ−を発表する」
 陸上部の放課後練習が終わったあと、コーチがおもむろに口を開いた。第1走者から順に名前が挙げられていった。そして「第3走者 高杉」
これにはびっくり。アンカ−と思っていた私だけでなく他の選手も一斉にコ−チを見つめる。それにはお構いなくコ−チは第4走者にK君を読み上げたあと、声をちょっと落として言った。
「いいか、よく聞け。この順番は考え抜いた上での作戦だ」
こう前置きして続けた。それによると――
4年生の対抗リレ−で、一番強敵と思われるのはH校だ。ここの選手を分析すると、うちと五分五分。敵はおそらくアンカ−には一番速いのをもってくるだろう。しかし情報によると、K君とほぼ同じ平均タイムだそうだ。そこでなんとしても第3走者までで1位を確保する。そうすれば1位と2位の差はそのまま保てる、いわゆる優勝に結びつくというのだ。
この作戦を成功させるには、1、2走者の経過はどうであれ第3走者、すなわち私が1位になってアンカ−にバトンを渡さなければならない。
(作戦は読めた、これは責任重大だ)
小学4年生の小さなハ−トは波打った。

   あっ、バトンが落ちた!
その日は曇天だった。会場は隣村のF小学校である。応援団をはじめ4年生以上の全生徒は歩いて会場に向かったが、選手は一足早くバスで到着、早速戦いに備えた。
100メ−トル競争、走り幅跳びにも挑んだ。そして400メ−トルリレ−だがこの間昼食休憩があった。リレ−はトラック、フィ−ルド全種目が終わったあとなので待つことひさし。頭の中はリレ−のことでいっぱい。
(絶対勝たねばならぬ、でも勝てるだろうか、負けたらどうしよう)
バトンパスにちょっと不安もあった。練習ではいつもアンカ−だったので、バトンを受けることしか考えなかった。間際に第3走者になったので、今度はバトンを渡すという新たな“作業”が増えた。急のことだがその練習も身についた。でも、なんとなく重い雲は消えなかった。
「バトンの練習をしよう」
昼休みのひと時、誰言うとなく4人で始めた。
(みんな、やっぱりオレと同じように心配しているんだ)
リレ−は最年少の4年生から学年別に行われた。
我が校は赤の鉢巻き。ぎゅっと結んだ。1周200メ−トルのグラウンドなので、第2走者とアンカ−は100メ−トルの地点で待つ。
 号砲一発、極度の緊張と静寂は大歓声の坩堝と化す。最初のカ−ブではそれぞれ大差なし。次のカ−ブで我が校とH校の首位争いとなるが第2走者にバトンが渡った時には2位に落ちていた。懸命に追うがその差はさらに広がった。そして眼前に迫るすさまじい顔、形相。
いよいよオレの番だ。バトン受けの態勢に入る。右手にバトンの感触、それを強く握った。H校に約5メ−トル遅れていた。その差が若干詰まったがカ−ブに差し掛かり抜けない。直線に入るや歯を食いしばり両手を思い切り振った。ぐいっと加速し敵を捕らえた。そして抜いた。2メ−トルぐらい抜いたところでアンカ−へ。手を挙げて待つK君の顔がはっきり視野に入った。「よし行くぞ」心でそう叫び彼の右手にバトンをたたきつけた。
これで優勝、と思いきや様子が変だ。1位であるべきK君が転がったバトンを追っている。信じられないその光景。70年経った今でも鮮烈に刻み込まれている。最下位の結果にしばし言葉がなかった。渡し方が悪かったのか、受け方が悪かったのか、どちらかだが
その原因は分からない。K君も分からなかったようだ。
 「みんなよく頑張った。ありがとう」
 しょんぼりした2人の肩をたたきながらコ−チが慰めてくれた。
大会の翌日、全校生徒の前で報告会があった。惨敗の悔しさから「出たくない」という2人にコ−チは言った。
 「何を言うんだ。勝負の世界ではよくあることだ。これを教訓として励めばもっと強い選手・人間になれる。その意味でも君たちは胸を張って会場に臨むべきだ」
 この言葉はその後も胸中奥深く生き続けている。
  
   神業の日本選手
 北京五輪の感激場面はテレビで何回も放映された。陸上400リレ−の時はそのつど食い入るように、バトンパスの瞬時に焦点を絞って見た。新聞やテレビでも報じられたが、日本の場合は「アンダ−ハンドパス」である。一般的には「オ−バ−ハンドパス」といって受ける側が手の平を上に向けて伸ばす。渡す側はそこへ上からバトンを入れるようにして渡す。日本はその反対で、受け取る側は手の平を下に向ける。渡す側は下から上に向けてバトンを入れるのである。
日本独特の方法で、2001年の世界選手権からはじめたとのこと。スピ−ドがのった状態で確実に渡せる、走る力の差を技術でカバ−できる、の利点があるようだ。この手法で猛練習すること7年、“神業”が身につき念願がかなった。
今大会では予選で優勝候補の米国がバトンパスのミスで敗退、2連覇を狙った英国も引継ぎ違反で失格した。「侮るなかれバトンパス」である。
(2008年9月1日)




何をどれだけ食べたら良いか

  毎日新聞のブリュッセル特派員電によると、欧州連合(EU、加盟27カ国)の行政府・欧州委員会はこのほど、EU域内の小学校に果物と野菜を無料で配布する食育構想を発表したという。児童の肥満を軽減、防止するためで、費用は年間約150億円を見込んでいる。EU域内の肥満児は500万人を超えているといわれ、この成果に注目したい。
 日本でも野菜をもっと食べようと叫ばれているが、目標の域には遠く及ばないようだ。生活習慣病は子供の身体をも蝕んでいる。こういう現実を見て痛感するのは「何をどれだけ食べたら良いか」である。
 私自身、心がけているものに『4群点数食事法』がある。これは女子栄養大学前学長・香川綾先生が編み出したもので、健康維持に大いに役立っている。今回はこの食べ方に取り組んでみよう。

   『4群点数法』という名の食事法
 香川綾先生は栄養学の母といわれ生前、日本人の食と健康について偉大な足跡を残した。常に考えていたことは、多くの人たちに分かりやすくて利用しやすい食事法を提供することであった。
 まず昭和3年(1928年)ごろ考えたのが「主食は胚芽米、おかずは魚1、マメ1、野菜4」という食事法。次いで昭和23年ごろから食品群を5つに分けてのとり方にした。約2年後、さらに7つの食品群に、それを4つの食品群に整理したのが昭和31年。そして45年、点数で熱量をあらわすことを加えた4群点数法にたどりついた。試行錯誤すること42年、自ら実践しながらの自信作である。もう少し具体的に説明しょう。
 4つの食品群とは、食品を栄養的な特徴によって4つのグル−プに分けたものである。
<第1群> 乳・乳製品と卵。(日本人に不足しがちな栄養素を含むため真っ先にとりたい食品群)
<第2群> 魚介・肉類と豆・豆製品。(筋肉や血液を作る良質たんぱく質の食品群)
<第3群> 野菜といも類、くだもの。(体の調子をよくする食品群)
<第4群> 穀物、砂糖、油脂、その他。(力や体温の基になる食品群)
 第1群から第3群までは必要な栄養素を満たすもので、第4群は熱量源となる糖質が主で、たんぱく質、脂質も含まれている。この1群から4群までの食品をうまく組み合わせて食べれば、いわゆる栄養バンスのよい食事ということになる。
 この組み合わせをうまくするのが点数制である。
 成人の場合、第1群から第3群までを3点ずつとれば、ほぼ所要量がとれる。第4群の熱量源は、労働量、性別、年齢などによって必要量も違うので、それぞれの条件に合わせて点数を加減する、というわけである。
 点数は、熱量80キロカロリ−を1点とする。たとえば、鶏卵1個(55グラム)、りんご1個(150グラム)各1点というぐあい。

   専業主婦は1日1600キロカロリ−必要
 そこで1日の栄養所要量が1600キロカロリ−の人(目安として専業主婦)なら1日20点が必要となる。その内訳は、1群から3群までは各3点が必要だから計9点。この9点を引いた11点が第4群の必要量となる。
 要するに4つの群が「何を」、点数が「どれだけ食べたらよいか」を意味する。
 専業主婦Aさんをモデルケ−スとして、具体的に展開してみる。
まず第1群からいこう。
 牛乳と乳製品各1点、それに鶏卵1個で1点、計3点、これでOK。
次に第2群。
魚介・肉で2点、豆・豆製品で1点。
そして第3群。
 緑黄色野菜120グラム以上と淡色野菜(きのこ類、藻類を含む)で計350グラム以上を1点とし、さらにいも類で1点、くだもので1点。
第4群。
 1600キロカロリ−(20点)を必要とするので、3群までの計9点を引いたあと11点をとる必要がある。ご飯5点、パン4点、油脂1・5点、砂糖・その他0・5点で満たすことができる。
 Aさんの場合はこれで及第点が付けられるが、この4群だけはそれぞれの労働量とか体質、体重などを考えて増減しなければならない。したがって頑健な男性と運動量の少ない女性とでは大きな開きが生じる。ただ、元気が出ず体重が減ってきた時には11点以上に増量するとか、逆な場合は減らすとか2〜3点の範囲内での調節が必要になるようだ。

   ほうれん草は400グラムで1点
 さて1点当たりの重量(単位グラム)だが、利用度の比較的多いものについてあげてみる。(香川栄養学園発行の『健康さわやかカ−ド』より)
 <第1群> *普通牛乳120 *ヨ−グルト(全脂無糖)130 *プロセスチ−ズ24 *鶏卵55
 <第2群> *マグロ65 *カレイ85 *イカ90 *アジ65 *サケ60 *豚肉モモ55 *鶏ささ身75 *牛肉もも55 *もめん豆腐110 *生揚げ55 
 <第3群> ほうれん草400 *にんじん220 *きゅうり570 *大根440 *きゃべつ350 *生椎茸440 *ひじき(乾)60 *じゃが芋110 *温州みかん180 *りんご150
 <第4群> ご飯50 *食パン30 *ゆでうどん75 *ゆでスパゲッテイ55

   「食は自分との戦い」
 香川綾先生が米寿のころ、食と健康についてうかがったことがある。
――食事のとり方の良い悪いが健康を左右する。その重要性を説く先生が、自らの体験上強調したいことはどういうことでしょうか。
 香川先生は答えた。
 正しい食生活をするということは、自分との戦いです。だれだっておいしいものはたくさん食べたい。だが、それに負けたら健康を害してしまう。生まれながら丈夫でも食のとり方を誤ればダメだということです。要するに絶えず健康管理を心がけなければいけません。当たり前のようなことですが、きちっとやることです。
 香川綾先生は白寿を過ぎ、あと少しで百歳という時に急逝された。
                             
 (2008年8月1日) 





振り込み詐欺の虎口


    「あなたに還付金があります」

 6月某日のことである。
 昼少し前、事務所の電話が鳴った。受話器からは聞きなれない声。30歳前後の男からだ。
「埼玉社会保険事務協局の○○です。実はあなたの医療費還付金が4万2560円あります。さきに書類で連絡しましたがそのままになっています。還付期限が迫っており、どうされますか」
 「ちょっと待ってください。そんな書類は届いていません。いつごろのことですか」
 「もう1年近くも前に間違いなく送りました。他の郵便物に混じって見落としたのではないでしょうか」
 しばし無言でいると相手は続けた。
 「いずれにしましても、このままにしておくと権利放棄とみなします」
 額は多くないが、“ポイ捨て”はもったいない。
 「いや、権利放棄などとんでもない。もちろんいただきます」
 「そうでしょうね。では、これから私が説明しますから早速その手順にしたがってください」
 担当者と名乗るその男は、やや威丈高な口調になった。
 「今、すぐにでも近くのコンビニでATMの口座登録手続きをしてもらいます」
 「面倒ですね、そうしないと還付してくれないんですか」
 「そのとおりです」
 (ちょっと変だぞ)
 瞬間、脳裏に警戒サインが点滅した。
 「すみませんが、きょうは忙しいのでその件、あらためて書類にしていただけませんか」
 「書類の再発行はしないことになっています」
 (どうもひっかかるな) 
 「でしたら、きょうは忙しいから明日、私が直接保険事務局へうかがいます」
 「事務局へ来ていただいても、手渡しの払い戻しはできません」 
 (ますます変だ)
世間を騒がせている“振り込め詐”の被害例が頭をよぎった。だが、あれは親族をかたり「困っているので至急振り込んでくれ」という手口である。この電話は逆にこちらに「振り込む」というのである。どう対応すべきか迷った。ここはしばし時間稼ぎをして考えよう、とっさにそう判断した。
「手渡し出来ない、ということでしたらおっしゃるようにしますが、ただいま来客中ですのでいったん電話を切ります。失礼ですがそちらの電話番号を教えてください」
彼は、すぐに教えてくれた。ただしフリ−ダイヤルだった。その時にこういうことも付け加えた。
「あなたはこの還付金が欲しいでしょ。手続きは急いだほうがいいですよ。お忘れなく」
(役所なら代表番号か担当課直通の番号を教えるのが一般的ではないのか、それになにか急いでいる感じだ)
 不信は募る一方だ。電話を切ると同時に行動に移った。


   役所いわく「そんな人物はいません」

 まず、この電話が本物かどうかを確かめねばならぬ。104番に電話をして、埼玉社会保険局の電話番号を教えてもらう。
代表番号にかけると交換手が出た。
「医療費還付金のことでさきほど○○さんと話しました。そのことで再び話したいのでつないでいただきたくお願いします」
「えっ、○○という人物は当事務局にはおりません。それに還付金?どういうことでしょうか、少しお待ちください」
交換の女性は管理職の席にまわしたらしい。
「代わりましたが、どういうことでしょうか」
これまでのいきさつをこと細かに説明するうち、相手の重みある声がすかさず返ってきた。
「おっしゃる人物はおりません。それは典型的な振込み詐欺です。最近そういう手口の詐欺が横行しているようです。相手の言うことに応じることなく完全無視してください」
(やっぱりそうか)


   化けの皮 

 怒りがこみ上げてきた。コンビニでどういう手続きをするのかは分からないが、その過程でこちらの暗証番号などを知り、ごっそり引き落とす手段らしい。
 いずれにしても相手が詐欺犯であることは間違いない。無視しようとしたが、その前に相手を痛めたくなった。電話を切る時に聞いたフリ−ダイヤルの番号にプッシュした。
「はい、埼玉社会保険事務局の○○です」
 図々しくも最初名乗った勤務先と名前である。「この詐欺犯め」との怒りを抑えて話した。
「還付金のことでお世話になっています。例の件、きょうは無理ですので明日手続きします」
「はい分かりました。お宅の近くのコンビニは○○でしたね」
 驚いたことにその店まで心得ていた。そのふてぶてしいこと。
「その前に、ちょっととうかがいますが、埼玉社会保険事務局に聞いたところ○○という人物はいないそうですよ」
 いよいよ化けの皮をはがす時が来た。ところが相手は屈しない。
 「そんなことはありませんよ。担当の課を間違えたのでしょう」
 堪忍袋の緒が切れた。
「こら、すべて分かっているんだ。そんな詐欺の手口なんかに乗ってたまるか。君は今どこ」
 ここで電話は切られた。
 数日して近くの交番から付近一帯に「防犯のお知らせ」が届いた。
「新手の詐欺にご注意ください」との見出し。中身は私の場合と全く同じ。特に「ATM口座登録手続きに乗らないように]と強調していた。そもそも還付金はこういう形をとることは絶対にない、とのことである。
 お知らせを見て思った。近くのどこかで被害者が出たのだ。私の未遂を警察に届けておけば防げたかもしれない。そして、あるいは犯人を捕らえることが出来たかも。
 残念!“長蛇”を逸す。

(2008年7月1日)




赤い十字に傷がつく


   
新刊本にクレ−ム
 元気よく受話器をとったMデスクの声がだんだん小さくなる。ちょっとイヤ−な予感がした。なにかにひどく恐縮しているようだ。受話器を置くや緊張の面でやってきた。
「面倒な電話が入りました」
(やっぱり予感があたったか)
「どういうこと?」
 「実は、先日出した新刊へのクレ−ムです」
 ノンフィクションものの単行本発行責任者になってから、いろいろな問題に直面した。内容の誤りとか売れ行きの低迷とか、そのつど神経をすり減らしてきた。部員のなすことすべて、責任は我にある。うんざりすることもあるが、顔に出すことは出来ない。
 「直近の新刊といえば『病める医療』のことだな」
 「そうです。その表紙カバ−が問題になりました。相手は日赤です」
 この本は、『エコノミスト』誌に1976年(昭和51年)新年号から1年間掲載された「医療の社会経済学」を1冊にまとめた内容である。
 連載の冒頭にこう掲げられていた。
「不必要に薬を飲まされるために起こる医原病の弊害が指摘されてからすでに久しい。乱診乱療への疑問も高まっている。医療面の国民皆保険制の実現のカゲで何が進行しつつあるのか。国民の健康増進の名のもとに医薬品・医療産業を肥大化させる結果になっていないか。医療の現状とそのあるべき姿を社会経済学的視点から徹底的に追求してみたい」
 つまり現代医療に対する問題点を社会経済学的な切り方で追ってみようという趣旨で始められた企画。それにふさわしい内容で連載中も好評であった。だからこそ我々も単行本化することにした。

異色の表紙カバ−
 本は、内容はもちろんだがタイトルが大切である。読者受けするように工夫し、「病める医療」とした。それとともに装丁の出来如何が売れ行きを大きく左右することがある。したがってどの版元も優秀なデザイナ−に依頼する。
 装丁者も心得たもので、会心の作を世に出そうとする。今度の本で、装丁にあたったTさんが仕上げたカバ−は目を引くものがあった。
 表面の中央に赤十字マ−ク。それも太さ36ミリ、天地左右それぞれ110ミリの真っ赤な十の字。その右上直角に当たるところにマウス1匹。そのマウスが赤い直角部分をかじり散らしている。そして赤十字マ−クの真上にタイトルの「病める医療」をでんと配した。赤十字をマウスかじることで「病める」を強調したのだった。
 「ちょっと面白い図柄だな」
 文句なくOKした。
こうして、1977年5月、四六版・284ペ−ジ、1100円の本は刊行となった。

   知らなかった「赤十マ−クは許可なく使えない」
 「電話だけでは要領を得ませんから、とにかく日赤へ行ってきます」
 Mデスクは少し青ざめた表情で出て行った。彼自身が担当者だっただけに、この場合まず彼に任せることにした。その一方で、最悪の事態にも応じられる心構えをしておく必要がある。
 こちらに全面的に非がある場合はそれに従わなければならぬ。刷り直しということもある。そうなったら大変だ。それに要する費用は莫大である。クビが飛ぶかもしれぬ。家族を抱えて路頭に迷うことになる。よからぬことが次々に脳裏をよぎる。
 「行ってきました。さんざん油をしぼられました」
 開口一番、M君はこう言いながら説明に入った。
 相手が問題にしたのは、表紙のカバ−である。
 まず、赤十字マ−クは許可なく使えないということ。こちらは勝手に使ってしまった。それだけでも違法の対象になる。それだけではない。赤十字マ−クをマウスがかじっている。赤十字を冒涜しており、許される問題ではない。この点を追及された彼は返す言葉もなかった。
「赤十字マ−ク使用の際、許可が必要ということを知っていましたか」
「そうですか、知りませんでした」
「そのマ−クをマウスにかじらせたことは重大な問題ですよ」
「デザイナ−が考え作ったものですが、それを0Kしたのは版元です。責任はこちらにあります」
「悪意でないことは分かりました」
こんなやり取りがあったようで、そのあと担当者は言った。
 「ことが重大ですので、この件の経緯などを書いた始末書を出してもらいます」
 「帰って上司に説明し早速その手続きを致します。大変ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
 言われてみると、相手が問題にするのは当然で、全く弁解の余地はない。
 M君はその日のうちに始末書を書き上げ届けた。平身低頭の内容だが、相手がどのように受け取るかは分からない。
 結論を待つのは辛いものだ。
 私は二つのことを考えた。重版のときにカバ−だけ刷り替える。もう一つは、返品になった本だけカバ−を取り替える。
 これとて大変な作業だが、中身の刷り直しにくらべれば、損害は軽くてすむ。しかし出来れば「始末書でOK」という寛大な処置にしてもらいたい、そう願わずにはいられなかった。
 不安と緊張の1日が経った。3日経った。1週間経った。相手からはなんともいってこない。そして1カ月経過。寛大な処置をとってくれたのだ。この件、私のところで押さえていたので社内的にも問題にならなかった。

 あれから約30年経った5月某日、新聞に赤十字マ−クに関する記事が載っていた。「赤十字マ−クの無断使用は違法で罰せられる」と、日本赤十字社がその誤用防止を呼びかけているという内容だった。違反すると、6月以下の懲役か30万円以下の罰金が科せられるとか。
イヤ−な“悪夢”がよみがえった。

(2008年6月1日)




――自転車と歩道

「最近、自転車の歩道通行は違法と知りました。そこで車道を走ってみましたが危険がいっぱいです。なんとかしてください」
 こんな投書が東京に住む68歳の女性から新聞に寄せられていた。深刻な重大な問題である。6月からは13歳未満の児童・生徒、幼児、70歳以上の高齢者、身体障害者に限り歩道通行を認める改正道路交通法が施行されるという。しかし、それ以外の自転車利用者は原則として車道を走らなければならない。自転車道の整備こそ望まれるが、まだまだ一部地域のみで全国的には極めて心細い。
 この問題は今始まったことではない。50年以上前に私自身肝を冷やしたことがある。

   自転車に、あっ子供が飛び出した!
 それは一瞬だった。歩道を走る自転車の前面に5歳くらいの男の子。急にブレ−キをかけたが間に合わずドスン。
 下宿から自転車通勤する私にとって、車道は走りにくかった。静岡市内は当時から車が多く、追い越される時などヒヤリとすることがしばしば。いきおい歩道を利用した。この日もそうである。ちょうど昼下がり、取材のため約束の場所へ急ぐ途中、喫茶店の前で事故は起きた。
 その子は喫茶店で母親と軽食をすませ、親が勘定を払っている間に一人で外に飛び出した。自転車はかなりの勢いだった。急ブレ−キをかけたため自転車は横倒しになり私も倒れた。自転車は直接子供にぶつからなかったが、倒れる私の身体がちょっと触れそのはずみでシリモチをついた。急いで抱き起こすとキョトンとした目つきで、どこも怪我はしていないようだった。
よかった、ほっとしたところへ母親の声。
「坊や、どうしたの?」
その声に子はがいきなり大声で泣き出した。驚いたのと母親の顔を見て急に甘えたくなったようだ。
「お母さんですか、危うくぶつからずにすみました。怪我はないようです」
「ぶつからないってどういうこと、ぶつかったからうちの子がシリモチをついたのでしょう」

  血相を変える母親
母親は血相を変えて食ってかかった。
(うるさ型の親だな、ここは低姿勢でいこう)
「ええ、でも直接自転車は当たっていません。大丈夫だとは思いますが病院へお連れしましょうか」
「その前に私がこの子の身体をみます」
慣れた手つきである。
「どう、ここ痛くない?痛かったらはっきり言うのよ」
「ううん、痛くない。そこも、うん」
泣きっ面の子供も少しずつ元気になってきた。全身どこも「痛くない」に母親も安心したのか表情がやわらいできた。
歩道の真ん中でのこのやりとりに、通りかかった数人が立ち止まり成り行きを見守っている。
「歩道は歩行者が優先だ。自転車はもっと気をつけないといけない」
事情も知らずに小声で話す人。
(ここに長くいるのはまずい。早くケリをつけよう)
「お母さん、どうでした?」
催促するように聞く私に無言の母親。やがて子供が一言。
「ママ、早く家に帰ろうよ」
「坊や、本当にどこも痛くないのね」
「うん、どっこも」
ここで母親も納得したようだ。周りにいた数人も離れていった。
「子供もこう言いますので帰ります。このことは主人にも話しますが、あとで子供に異変があった時には責任をとってもらいます。そのためにもお名前と連絡先を教えてください」
言葉は丁寧だが目は冷たい。
(歩道を走った私にも責任はあるが、そもそもは子供が急に飛び出したために起きたのだ。目を離した親にも責任があるのだ)
 ノドもとまで出た言葉をぐっとこらえ名刺を出した。
緊張が去ると身体のあちこちが痛い。転んだ時の傷らしい。こらえながら一応その日の取材を終えた。だが、極めて不愉快である。と同時に、あの子にもしものことがあったら?と思うと落ち着かない。馴染みの店で酒に浸った。
翌朝、足の3箇所が黒ずんでいた。「この程度でよかった」と自らに言い聞かせた。それから数日、ヒヤヒヤしていたが子供の親からはなんとも言ってこなかった。

  急げ!自転車道の整備
 昨年、全国で起きた自転車の交通事故は17万件を超し、交通事故全体の約2割を占めた。交通事故死者のうち14・9%が自転車走行中だった。これは欧米にくらべ突出している。一昨年、アメリカでは1・8%、フランス3・8%、比較的多いドイツでも9・5%だったという。 
投書にあった自転車道設置だが、日本でも遅ればせながら警察庁、国土交通省が取り組み始めた。東京、新潟市などの一部ではすでに車道と平行した自転車道が作られ利用者に喜ばれているようだ。しかしこれはほんの一部に過ぎない。ヨ−ロッパでは自転車道の整備がかなり進んでいるとのこと。日本列島にも、もっともっと自転車道を広げて欲しい。            
(2008年5月1日)






――女の執念

 美しくなりたい、それは女性の執念であろう。50年も前と最近のある出来事を対比してみたくなった。

   口紅の万引き現行犯
 イヤ−なものを見た――。一瞬そう感じた。デパ−トの化粧品売り場でのことである。10代後半と思われる女性が口紅を手提げ袋の中に入れ、レジ素通りで出口へ向かった。店内の客はまばらだったが、店員の目には止まっていないようだ。
 戦後数年しか経っていないころ、多くの人は食に追われ、化粧品にまでは手が届かない女性がかなりいた。そんな時に静岡のデパ−トへ取材に出掛け、たまたま万引きの現場を見てしまった。
 (店員に知らせようか)
 その一方で、
 (待てよ、いきなり犯人に仕立てていいのか)
 気づくと女性のあとをつけていた。彼女は歩を早める。こちらもそれに合わせる。しばらくして声をかけた。
 「ちょっと」
 おびえた表情で振り向いた。
 「すみません」
いきなり頭を下げる彼女に、こちらがびっくり。
「いや、僕は店の人ではないから」
そう言って、微笑みかけた。でも、彼女の目は警戒に満ちていた。
「さっき、見てしまったんだよ」
「だから、ご免なさい。つい手が出てしまって。返しますからお店には黙っててください」
先ほどの口紅を手提げ袋から出した手は震えている。どうしようか迷ったが、万引き犯にはしたくなかった。
「まだ口紅をしたことはありません。一度でいいから真っ赤に染めたくて。でも家では買ってくれません。きょう店内を見ているうちについ、悪い心が起きてしまって」
「まだ学生なの?」
「いえ、この春、高校2年を終えたところで中退しました。家が貧乏なので」
そう語る彼女は涙を浮かべながら家庭の事情を話してくれた。学校をやめたあと、近くの会社に事務見習いとして勤め始めたが、給料が少なく、しかも家に大半を入れなければならず、口紅などは買えなかった。
(これは作り話とは思えぬ。たとえ、そうだとしても店側に渡すのは酷だ)
そこで一計を案じた。
「事情は分かったが万引きはいけない。これは犯罪だよ、分かるね。だからもう一度お店に行きその口紅を買いなさい。お金は僕が出すから」
「そんなことできません」
信じられないという表情で、我が顔をじっと見つめる。
「君は口紅が欲しいと言ってたね。店に入ったらその口紅をレジに出しなさい。それでいい。さあ急ごう」
 店内は別段変わった様子もない。彼女はおそるおそる口紅を出した。うしろにいた私は言われるままに代金を払った。いくらだったか忘れたが、安サラリ−マンの身でもそれほど驚くほどの額ではなかった。
 「さあ、帰ろうか」
 二人肩を並べて店を出た。当時、独身の私。店員の目には兄妹か愛人同士に映ったかもしれない。彼女は最敬礼をして言った。
 「本当にすみませんでした。このお金はあとでお返ししますので、お住まいとお名前を教えてください」
 「名乗るほどのものではありません。その口紅は僕のプレゼントです。大切なのは二度とこのようなことをしないように、肝に銘じてください」
 良いことをしたのか、悪いことをしたのか、私には分からなかった。

   電車内でのお化粧
 あれから半世紀以上も経った今年2月末、武蔵浦和駅で大宮始発新宿行きの埼京線に乗った。昼下がりで座席も空いていた。見ると、前の席にいる20前後の女性が丹念にお化粧をしている。真正面なので、イヤでも目に入る。10センチ四方の化粧箱を膝に置き、唇を真っ赤に染めている。その赤の色濃いこと。手鏡に写しながら、次は眉毛に移る。眉墨を左右にさっと引く。さらに小さな刷毛で睫を撫でる。隣席の中老の男性が迷惑そうにジロリ、そして舌打ち。でも、彼女は全く意に介さず磨きの手を休めない。
 それに、彼女は2人分の席を一人占めにしている。車内が混んできたが詰めて譲ろうともしない。高齢のご婦人が立っているがそれも無視。
 やっと顔の手入れに満足したのか手鏡を化粧箱に収めた。すると、今度はマニュキュアを両手の爪に塗り始めた。みるみる10本の爪が銀色に変じた。両手をいっぱいに広げ、塗りにムラがないか確かめる。
 「いけぶくろ、いけぶくろで−す」
車内放送に、彼女はすっくと立ち上がった。夢中に化粧していても、ちゃんと聞こえていたのだ。この間20余分、一言もしゃべらず、1回もよそを見なかった。
 数日後、『電車内化粧』についての調査結果が新聞に載っていた。ポ−ラ文化研究所が首都圏に住む15歳から64歳までの女性を対象にインタ−ネットでまとめたとのことで、興味深く読んだ。
 それによると、車内化粧の経験者は20代後半が最も多く43%、次いで20代前半が34%と20代が圧倒的に多い。全体の平均は19%だった。車内の化粧についてどう思うかでは、「とても抵抗感がある」と答えた人の比率は全体で76%に達していた。20代後半でも60%が抵抗感があると答えていたという。
 これを読んで思った。20代の女性も抵抗感はあるが時間がなくやむにやまれずつい車内化粧、ということになるようだ。

 さて、戦後間もない女性と現代の娘さん、2人の例だが、その落差は大きい。でも一つ共通しているものがある。『美』への憧憬である。そこに落差は無い。

(2008年4月1日)





――宮城まり子さんの熱情
 
 
 宮城まり子さんといえば『ねむの木学園』。その学園をつくり育ててちょうど40年。毎日新聞夕刊(2月8日付)特集ワイドが取り上げていた。身体の不自由な子供たちを抱き続けての歩み、傘寿に達した今も開園時の熱情そのままに燃えている――。
 かつて月間雑誌『栄養と料理』の編集長時代、彼女をインタビュ−したことがある。24年前のことだ。その時、「人を愛する心」そこに原点があると感じた。子供虐待のニュ−スが後を絶たない今、彼女の人生スタンスに学ぶところが多い。時空を経たインタビュ−だが、ここに再現(一部削除、加筆)してみよう。

   砂丘に雄大な『ねむの木学園』
 起伏に富む白い砂、鮮やかに映える緑の松、小高い丘に立ったまり子は魅せられた。頬に遠州灘の潮風、潮騒が聞こえるかのように。思わず叫ぶ。
 「きれい、ここだわ、ここにしよう」
 小柄な身体は歓喜に震えた。
 ここ、静岡県小笠郡浜岡町の砂丘。『ねむの木学園』はこうしてこの地に決まる。私財を投じて土地を買い、そして建物。創立にこぎつけたのは昭和43年(1968年)4月6日。(取材時にはそれから16年経っていた)。
 ――17年目に入りましたが、足跡を思い返して感慨もひとしおと思います。
まり子 それはもう。土地探しだけでも10年かかりました。でも、だれにも言わず自分一人でやりました。最初は高尾にと思いましたが、3万坪で2億5000万円。そのお値段ではとてもダメであきらめました。いま考えるとすご−く安かったのですが、お金を借りるということを知らなかったもので。そのほか、東京都下・村山、静岡・三島、千葉、そして静岡・三保の松原。三保の松原には強い執着を持った。紹介状もなしにいきなり静岡県庁の門をたたきました。彼女の執念に児童課のお役人も次第に耳を傾け言いました。
「三保の松原は土地が狭い。あなたの夢をかなえるためには、あそこがいいでしょう」と浜岡の砂丘を教えてくれた。
(それから開園までの4年間、彼女は飛び歩いた。辛いことにもじっと耐えた。「不自由な子に楽園を」 この一念の前に苦はなかった)。


  感動!子供たちの絵

――昨年11月11日から1カ月間、スエ−デンで子供たちの絵の展覧会を開きましたね。多くの人たちが感動したと聞いています。
まり子 集中力の結集による絵という点から、強い関心を持ってくれました。それに色彩とか。会場では一緒に行った子供たちがダンスをやったり、茶道のお茶もやりました。絵だけでなく、こういうものも集中力がないとできません。
今の子供たちに欠けている集中力、これをなんとかしなければ、というのは世界の教育者共通の悩み。その集中力が、ねむの木学園の子供にはある。そこにスエデ−ンは着目した。ストックホルム市文化会館長ベアタ・シドホフさんは「障害を持つ子供たちの内に秘められた大きな可能性が、すばらしい作品を生み出しているということを認識させてくれました」と感動していました。
――子供たちの絵の展覧会はどのくらいになりますか。
まり子 全部で40数回になります。国外ではニュ−ヨ−ク、ハワイ、それからブルガリア、今度のスエ−デンです。
(俳優でもある彼女は、幼いときから日本舞踊、音楽、絵に興味を持った。子供とのふれあいで、絵や音楽を持ち込んだのは当然で、無理なく子供たちの心にとけこんだ。想像力を広げ、隠れた能力を引き出した。現在までに約250万人が展覧会に足を運んだ。吉行淳之介さん、水上勉さんの単行本の表紙にもなった。また映画も『虹をかける子供たち』など3作がある。『虹をかける子供たち』は昭和56年第9回国際赤十字映画祭で、すぐれた絵画、文学に与えるシダラック賞を受けた。見る人の心を揺さぶったのである)。
――施設としてスタ−トしたときは12人ですか。
まり子 そうです。今は50人。うち男の子が30人です。卒園者はすでに50人になります。
――卒園した子供たちはその後、どうしていますか。
まり子 子供たちは手紙をくれます。しかし親はぷっつりです。わが子が施設にいたことを隠したいためでしょうか。
(一瞬、暗いカゲが彼女の面を走った。悲しい目であった)。
――そういう一面を見ながら努力される。これは私たちには想像もできないことがいっぱいあるでしょうね。
まり子 それはいっぱいあります。一人の記録だけでも膨大なものになります。表に出さないだけです。
  

  「ほしいわ 体力と時間」

――今、お体の具合は?
 まり子 手術して4年になります。ひところは車イスのお世話になりましたが、その必要もなくなりました。でも、身体を動かすと激痛を感じます。
(彼女は椎間板ヘルニアで東京都内の病院に入院、手術した。子供たちとは会えなくなった。病院から毎日欠かさず学園に電話を入れる。しかし心配で心配でならなかった。子供たちがじっと待っていてくれるか、どうかである。そんなある日、重大なことが分かった。
子供たちが、こっそり東京へ見舞いに行こうと“脱走”を計画していたのだ。ひとつの部屋にいる7人の子。午前3時に見回りがあるので、そのあとの午前5時、窓から抜け出し、東名高速道を歩いて、という作戦が練られていた。実行できなかったが、これを知った彼女は、病院を説得して退院した)。
 まり子 あの時は、子供たちがいじらしくて、かわいそうで、やむにやまれぬ退院という無茶をしました。
 (退院できる状態ではなかったが、子供を思う彼女の熱い心は、わが身よりも子供たちだったのだ。子供たちはそれほどまり子さんを慕っていることの証明でもあった)。
 ――まり子さんあっての学園、慕いに慕う子供たち。これから先、どのような展望をお持ちですか。
 まり子 スタ−トしてから5年ぐらいまでのころ、やめようかと思った。しかしそうすることは、社会に対する重大な罪だと悟りました。そして10年ぐらいからは、やめようと思うことは卑怯で子供たちに無礼になると考えています。
 (この考えはそのまま子供たちに通じる。いつまでもみんなのお母さん、お姉さんであるのだ)
 まり子さんは、幼いころから歌手として活躍した。戦後『ガ−ド下の靴磨き』『納豆売りの少年』など生活をにじませた新スタイルの流行歌で爆発的な人気を呼ぶようになった。テレビの『てんてん娘』をはじめ、映画・舞台でもヒットした。そのころから不自由な子供たちに何か喜んでもらえることを、と心に決めた。その信念は不動だ。
(2008年3月1日) 




――受動被害者と会社

喫煙者の煙で「急性受動喫煙症」と診断された男が、会社を相手取り珍しい訴訟を札幌地裁岩見沢支部に起こした。北海道砂川市に住む34歳になる非喫煙者で、こういう経過をたどったようだ。
 この男性は昨年1月、道内の建築資材製造会社に入社した。ところが従業員の半数以上が自分の席で喫煙していた。タバコを吸わない彼は入社直後から頭痛や吐き気に悩まされた。4カ月後、診断を受けたところ急性の受動喫煙症と診断された。このため上司に分煙を要望したが会社側はこれを拒否、逆に退職か配置転換を選ぶよう通告された。拒否すると、会社は「やむを得ない理由がある」として解雇した。そこで解雇無効確認と未払い給与の支払いを求め1月25日に提訴した。
 このニュ−スを見て、数年前に急逝した知人のことが浮かんだ。

   居酒屋経営の女将
 その店は、カウンタ−と椅子席あわせ20人ぐらい収容できるこじんまりとした居酒屋だった。女将は50歳前半。美貌ではなかったが客扱いが上手で、店は繁盛していた。30歳くらいの女性1人を雇い、女将手作りの田舎料理が評判だった。足繁く通った私だが、ひとつだけ気になることがあった。お客の半数以上が愛煙家で、いつも紫煙が漂っていた。
 かつて1日100本の『憩』を吸い、ぷっつり止めた私だが、この煙があたりに漂い始めると手で払いのけたくなる。特にカウンタ−席を好むため、左右に愛煙家が座ると時折我が鼻腔をまさぐる。でも、嫌煙家のように腹が立つことはない。タバコに魅せられた一時代があったからである。
 朝起きた時、食後、疲れた時、酒を口にしている時などのタバコはたまらない。つい、愛煙家の気持ちになってしまう。
「あの煙には理屈抜きの魔性があるからな」
 この理解?が先に立ってしまう。
その繰返しが続いていた5年前の年の暮れ、女将に異変が感じられた。
   
  ヘンな咳で検査入院
ある夜、女将の顔色が冴えなかった。時折軽い咳をする。
ちょっと気になる咳だったが、あえて聞かなかった。3日ぐらいして行ったときも同じような咳をしていた。
「風邪ですか、寒いから大切にしないとね」
「たいしたことはないですが、しぶとい咳でいやになっちゃう」
 店内は相変わらず紫煙の混じった空気がいっぱい。
 1週間ぐらいして店の暖簾をくぐった。
「ママ、お休みです。急に入院しまして」
「どうかしたの?」の問いに女店員が説明してくれた。
ずっと咳が止まらないので近くの医者に診てもらったところ、検査入院の必要があるとのことで総合病院へ3日前に入院した。ちょっと時間がかかりそうなので、アルバイトをいれ、彼女が女将代わりに店の切り盛りを任されたとのこと。
(タバコの煙が原因かも)
そんな感じが頭をよぎった。女将はタバコを吸わず、お客の紫煙を常に気にしているところがあった。
「うちのお客さんタバコ好きが多くて、ご迷惑でしょ。でも止めてとは言えないの。商売だからね」
「オレだって昔はタバコあっての人生だったよ」
そう言って女将を慰める私だったが、連日この煙攻めではと、ひそかに女将の身体を心配していた。
 
  余命なす術もなく
女将は肺ガンだった。それもかなり進行した状態で、入院から5カ月でその瞼は永遠に閉じられた。店を開いて15年経っていた。客の紫煙がじわじわと彼女の肉体を蝕んでいたとしか考えられない。その店はやがて暖簾をおろした。
北海道の訴訟に対しどういう裁きが出るか注目されるところだ。これは他人の煙から自分を守ろうとした原告と被告だけの争いではない。『お互いの健康』を守るという視点で取り組んで欲しい。
フランスでは新禁煙法が導入されて1カ月、カフェ、バ−など公的空間の屋内喫煙が完全に消えたという。そのフランスも西欧では“後進禁煙国”で、すでに18カ国が公共の場では禁煙になっているとのこと。どうやら地球全体がそういう方向に動きつつあるようだ。
                            
(2008年2月1日) 

  



 
――ゴ−ル半歩差の勝敗


 スポ−ツはドラマを生む――。昨年12月23日、京都・都大路(7区間42・195キロ)を舞台に展開された男子第58回全国高校駅伝大会。結果は、仙台育英(宮城)が2時間3分55秒で2年ぶり7回目の優勝に輝いた。2位は佐久長聖(長野)だった。だが、その差は半歩、タイムは同じという際どいもので、見ていて胸が痛くなった。優勝、準優勝が同タイムというのは大会史上初めてである。わずか半歩ではあるが、優勝の喜びと逃した悔しさ、その差は天と地であろう。
 両選手ゴ−ルの瞬間、私の脳裏にあの時の“無念”がよみがえった。


   小学校の陸上対校競技 

 戦争中のことである。当時は小学校4年から学校対抗の陸上競技大会が毎年1回あった。富士山麓の田舎町だが、学年でも1,2位を争うスピ−ドを持っていた私は4年になるとすぐ学校代表の陸上選手に選ばれた。短距離と走り幅跳び、それにリレ−である。
 毎日放課後、コ−チの先生指導のもと猛練習が繰り返された。いつも暗くなるころまでコ−チは厳しい顔を崩さなかった。半べそをかく子もいた。しかしみんな歯を食いしばって頑張った。
「ヨ−シ、きょうはこれまで」
 コ−チの声に一斉に小使い室に飛んでいった。
 そこには大きな二つのやかんに砂糖湯が作られている。選手をねぎらう学校側の気配りである。
猛練習のあとだけにのどはカラカラ、腹はぺこぺこ。のど元を通る甘味はこたえられない。少年たちはこの甘露の“とりこ”になるのだった。
 いよいよ初陣の時が来た。参加校は10校。その年は隣村のF小学校が会場だった。 
 前日の朝礼では選手一同ユニホ−ム姿で全校生徒の前に立ち、激励を受けた。そして放課後は激励の会食があり、競技に「勝つ」を念じてカツ丼が振舞われた。当日の朝、学校が用意したバスに乗る。きのうの感激がよみがえる。自らに言い聞かせた。
 「おれは一番早いんだ。絶対勝つぞ」
 そんな私を見てかコ−チが耳元でささやいた。
 「いいか、肩の力を抜け。そして自信を持て」

   
   初陣に悔し涙

 プログラム3番目に4年の100メ−トル競争。なにか慌ただしい。鉢巻を締めなおして選手控え室を出る。極度の緊張状態だったが、予選は1位でゆうゆう通過。決勝を待つ間に気持ちも落ち着いてきた。コ−チが予選記録を持ってきた。
 「予選では文句なしだ。しかしH校に伏兵がいた。油断するな」
いよいよ決勝。大きく深呼吸してスタ−トラインに立った。スタ−トの練習も入念に。
(よしいける) 納得できるものだった。
私は4コ−ス、ライバルは5コ−ス。真っ直ぐ前方に伸びる白いコ−スがいつもより濃く見えた。
 「位置について」「用意」
 スタ−タ−の声、もう応援団の声も聞こえない。頭の中は『寂』。
号砲一発。思いっきり腕を振った。ゴ−ルがぐんぐん近づく。その時である。右側に人の気配、ライバルだ。まさか、と思った。そしてゴ−ル。私には勝敗は分からなかった。
 コ−チが飛んできた。
 「微妙だ。よくやった」
 結果は私の負け。胸一つの差だったようだ。
 自分でも信じられない2位。その悔しかったこと。
「なぜだろう」
 走り出した瞬間左右に人影なし、トップである。
 「勝てる」 そんな気が起きたかも知れない。その直後の伏兵である。相手は私を視野に入れてゴ−ルと同時に胸をぐいと前に突き出したようだ。その心の差が明暗を分けた。
 コ−チの話を聞きながら、そのように我が敗因を分析した。
 これは大きな教訓になった。
『最後の最後まで力を抜くな』である。成否はその一踏ん張りで決まる。スポ−ツに限らず人生すべてに通じる。今でもかみしめている。                   
(2008年1月1日)





――五輪の熱気


  東京大会の感激

 今年もこの号で終わり。来年は子年・平成20年、北京オリンピック開催の年でもある。4年に一度のオリンピック(夏季)は回を重ねるごとに参加国・地域がふくらみ出場選手の数も更新していく。北京大会も記録的な数字が予想される。熱気は海を越え日本列島をもすっぽり包んでしまうだろう。その熱気こそ国境を越えたエネルギ−である。
あの東京大会閉会式で極限のエネルギ−を見た。


  ハプニング

「予定稿の書き直しだ」 私は叫んだ。
昭和39年(1964年)10月24日のことである。
10月10日から開かれた第18回オリンピック東京大会も残すは閉会式だけ。熱戦のあとのしめくくりにふさわしい内容にしなければならない。新聞社も綿密な企画を立ててこれに備えた。
午後5時きっかり、小雨模の中、オリンピックマ−チが流れる。ギリシャを先頭に各国国旗が整然と入場。ここまでは予定どおりだった。しかしそのあとスケジュ−ルにないことが起きた。八列縦隊が建前となっていた選手団が一団となってトラックへ。そして肩を組み合う者、走りおどける者、日本式のお辞儀をする者。満員のスタンドからはこれに呼応する手拍子。国立競技場は選手も観客も一体となって沸きに沸いた。
若いエネルギ−がはちきれるようだ。ハダカの心がぶつかり合った。そこには国境もない。まさに「世界は一つ」だった。
テレビの生放送を見ていてビックリ、冒頭の叫びとなった。


  使えない予定稿

 新聞社では予定稿というものがある。ある会合とか大会の開始時間が締め切り時間ぎりぎりの場合、あらかじめ定められたたスケジュ−ルをもとに原稿を書き、当初はそれで間に合わせる。そのあとナマの原稿に代える。
 東京大会は午後5時から閉会式となっていた。当時締め切りの一番早い地区は午後6時。式が終わってから書き始めたのでは間に合わない。そこで予定稿に頼ることにした。内容的には迫力に欠けるがそうせざるを得ない。
 閉会式が始まったころには、すでに予定稿が整理本部に入り、見出しも出来上がっていた。ところがテレビが伝える場景は原稿とはあまりにもかけ離れている。そのままの予定稿では笑いものになる。
 「原稿はあと何分でもらえるか」
 「今、やっている。しかし全面書き直しは無理かもしれん」
 「とにかく、この感激的な場面を入れないことにはニュ−スにならん」
 社会部と整理本部の間で激しいやり取りが続く。

  
  分刻みの編集作業

 どんな事情があろうとも午後6時までには降版しなければならない。間に合わなければ列車便に積み遅れる。そうすると読者への翌朝配達が出来なくなる。 厳しい分刻みの時間との戦いが始まった。
 書く側も早い。整理する側も早い。見る見るうちに予定稿は大きく書き替えられ、見出しも臨場感あふれるものになった
 「オリンピックは最後までドラマがあるな」
 私はつぶやいた。
 過去のオリンピックでは見られなかったハプニング閉会式。東京大会のキャッチフレ−ズ『世界は一つ』の感激が炎となったのだ。
 このあと、どこの閉会式も友情いっぱいのにぎやかな“祭り”に変身した。 
 
 ちなみに、東京大会では、参加94カ国・地域。その規模もかつてなかったものだ。162種目に参加選手・役員7500人。日本代表は371人(役員を含む)で、過去のどの大会よりも多い参加者だった。そして金メダル16、銀5、銅8というすばらしい結果であった。                        
(2007年12月1日)




 
――報道写真と人権


   取材中のジャ−ナリストの死

 今回は、報道写真と人権について考えたい。
 ミャンマ−で反軍政デモを取材中に銃撃され死亡した日本人ジャ−ナリスト、長井健司さん(APF通信社)の倒れている写真の扱いについて新聞各社の扱いが分かれた。
 9月28日付朝刊1面の写真である。朝日、読売、産経新聞は長井さんの写っていない写真を掲載した。東京新聞は倒れている人物を長井さんと特定しないで掲載。毎日新聞は最終版の一つ前の13版までは長井さんの入っていない写真だったが、最終の14版で倒れている写真を報じた。「朝日」は同じ日付の夕刊で長井さんをカットしてない写真を再掲載した。
 この写真は、ロイタ−通信が配信してきたものだが、これだけ各紙の扱いが異なるということは珍しい。なぜだろうか。故人の人権問題が絡んでいるからである。
 毎日新聞は当初、逃げまどう市民の右下に倒れている人物が長井さんだとは分からず、市民に焦点を当てて、倒れている男性の部分をカットして掲載した。ところが深夜になって、その男性が長井さんと確認された。そこで、倒れている長井さんが写っている写真を掲載すべきかその是非が編集局内で論じられた。
 悲惨な写真なので掲載すべきでない、という考えとジャ−ナリストとしての使命感を感じさせる長井さんの姿は心に訴えるものがある。また流れ弾に当たったというミャンマ−政府の説明にもかかわらず、写真は至近距離から狙い撃ちされた可能性を示していた。これらの事情を総合判断した結果、最終版での切り替えとなった。(毎日新聞10月29日付朝刊「メデイアを考えるペ−ジ」より)
 これら各紙の扱いについては賛否両論に分かれるが、私は毎日新聞の扱いに同調したい。たしかに犠牲者の生々しい写真は避けたい。しかし社会性の強い真実を報道するためには
掲載こそ報道機関の使命ではなかろか。
 
   事件写真掲載についての配慮
 新聞は事件の遺体について慎重な姿勢で臨むことにしている。人間としての尊厳を大前提に考えるからである。したがって事件現場の写真はあらゆる角度から取材されるが、遺体の写った写真は、例外を除いてボツにする。
これは、かつて苦い経験があり、その反省に基づいている。
1948年(昭和23年)に起きた帝銀事件がそもそもの発端といわれる。1月26日、帝国銀行椎名町支店で、行員12人が毒殺された。そのむごたらしい写真が報道された。当時としてはこういう悲惨な写真をむしろ競う風潮が新聞社にはあったようだ。翌朝、この新聞を見た読者の反響は新聞社への抗議となった。
目を覆いたくなるような現場、死者に対する冒涜、遺族への配慮に欠けている、など極めて厳しいものであった。新聞界にとって大きな衝撃、それは大きな反省となった。
(事件は平沢貞通被告の単独犯として死刑が確定したが、拘置中に病死した)
それからというもの、死者の写った写真には特に配慮するようになった。私の経験でも数え切れないくらいそういう場面に遭遇した。一つの例を挙げてみよう。

   「人権を念頭に置け」
 1966年(昭和41年)3月5日昼前、英国旅客機(BOAC)が富士山麓に墜落し乗客・乗員124人全員が死亡した。墜落といっても富士山上空付近で空中分解(推測)したため機体も遺体もバラバラの状態だった。本社から社会部、写真部の腕利きが現場に駆けつけ、すさまじい現場の模様が記事、写真として殺到する。こういう場合は1面、社会面のほかにニュ−ス面を拡大して報道する。もちろん、写真特集面も設ける。
 現場から電送で送られた写真は写真部デスクを経て整理本部に回ってくる。
 「お−いこれは1面、これは社会面」
 怒鳴るようにして振り分ける。
 「さて、グラフ面はどうするか」
 写真は休みなく次から次へと入ってくる。
 「この写真、すごく迫力がありますね」
 A君の声。グラフ面担当のA君はそれをトップにしたいようだ。
 「ウ−ン、いいな」
 言った途端、画面に損壊の激しい遺体が目に映った。
 「待てよ、ここに写っているのは遺体ではないか。まずい、ほかのにしよう」
  画面全体に広がる惨状、胸に迫るものがあった。しかし中央付近の1点に注意深く目を注ぐと報道できるものではなかった。
 「これは、ほかのペ−ジでも使えない。ボツだ」
 「特定できない人物だからかまわないでしょう」
 A君は執拗に食い下がる。
 「うまくトリミングして使えませんか」
 「ダメだ。人権を念頭に置け」
 最終版が終わったあと、このようにしてボツにした写真が数枚もあった。たとえ、迫真の写真でも、命を失った犠牲者への礼を失ってはならない。そう信じたからである。
 実は、この前日の3月4日夜にもカナダ太平洋航空のDC8型機が濃霧の羽田空港で着陸に失敗、64人が死亡した。同じような辛い悲しい編集作業が続けられた。その気持ちが晴れないところへの事故だっただけに、未だに鮮烈に脳裡に刻まれている。

   報道の使命
 長井さんの場合は逆である。これが単なる死ならば当然掲載されなかったと思う。しかしカメラを持ったまま倒れている長井さんの報道への情熱、事件真実の活写、また事件解明への証拠。そういうものをこの写真は示してくれた。遺族にとっては辛い現実だが、ご理解をいただける写真ではなかろうか。  
 ただ一つ、この一件を拡大解釈し人権を損なうことのないよう配慮する基本姿勢を、報道陣は堅持してほしい。             

 (2007年11月1日)



――条例で『いじめ防止』

全国的に問題になっている学校などでのいじめをなくそうと、兵庫県小野市が珍しい案に取り組もうとしている。学校だけでなく家庭、職場などあらゆる場所で起きるいじめが対象で、通報の義務や関係機関の役割などを定めた『いじめ防止条例』(仮称)を制定するというもので、このほどその方針を明らかにした。今年12月の定例市議会で提案し、来年4月の施行を目指している。子供から大人までのいじめに対応し、通報義務を織り込む条例はほかに例を見ない(と思う)。小野市だけでなく広く根を張り育って欲しい。
いじめの芽を早く摘み取ること、それは被害者救済につながる。50年以上も前のことだが、そんな経験をしたことがある。

  気になった腕の傷
「君、どうしたの?その傷」
静岡支局にいた独身時代、外食に愛用した大衆食堂でのことだった。ワンピ−スの上に割烹着をまとった彼女の右手が赤くはれているのがちらっと見えた。彼女ははっとしながらそこを隠すようにして奥へ下がった。
この店は安い割合に量もたっぷり、味もまずまずで私の舌にぴったり。それに酒のサ−ビスもいいので晩酌に利用することが多かった。親仁さんは50歳ぐらいでなかなかの腕前。足繁く通っているうちに、親しい仲になった。女店員3人を使って商売も結構繁盛していた。その女店員の一人のSちゃんの手に生傷があったのだ。
Sちゃんは30歳くらいで店の先輩格。愛嬌があってお客の受けもよい。私とも冗談を言い合うほど。その彼女に1カ月ぐらい前からちょっと暗いカゲがさしていた。気になっていた矢先のことだけに、酒を飲んでいてもそのことが頭から去らない。肴の注文をしても別の女性がくる。なぜか彼女は私を避けているようだ。
「どうもご馳走さま」
1時間半ぐらいして席を立った。暖簾を押して外に出ると後ろから親仁さんの声。
「ちょっといいですか」
(彼女のことだな)
 私にはピンときた。    
「Sちゃんのこと、気になさったんじゃないですか」
「そうなんですよ、なにか深い事情があるようですね」
「そのことでちょっと相談にのっていただきたいと思って、よろしいでしょうか」
 うなずく私に彼は続けた。
「あす3時ごろX喫茶店まで、おいでいただけますか」

   複雑な家庭事情
 親仁さんはとつとつと語りだした。それによると――
 陽気なSちゃんに異変が見られたのは2カ月ぐらい前。いつもマメに動くのに、時折なにか深い思いにとらわれぼうっとしている。変だなと思っているうちに、欠勤するようになった。
 無断ではなかったが、定休日以外に休んだことがない真面目な店員がどうしてだろうと不審に思い始めた。といって色恋沙汰ではなさそうだ。彼女は夫もいて結構うまくいっていると聞く。
 そんなある日、2ヵ所にアザができた顔で出勤してきた。2日間欠勤したあとである。ただならぬ気配を感じ彼女を別室に呼んだ。
 「風邪をひいて休んだとのことだがもういいの?」
 「すみませんでした」
いつもならいろいろと経過を積極的に話すのに、ためらっているようだ。そこでズバリ聞いた。
「顔にアザがあるね、もう痛くない?」
急に彼女は顔を手で覆い嗚咽した。
「事情があるようだね。よかったら話してごらん」
すべてが分かった。

   夫の暴力に泣く
 Sちゃんの夫は35歳。夫婦仲良く円満な家庭だった。ところが半年前に会社が倒産、再就職めざして職安通いを続けたがうまくいかない。収入の道を絶たれ、あせる彼は日ごとに言葉も荒くなり、昼間から酒を飲み物を投げるようになった。それをなだめようとする彼女にも手を出すようになった。
身体のあちこちに生傷が絶えないほどの暴力を受けた。このころからSちゃんの欠勤が始まった。外から見えないので周囲には気づかれずにすんだが、3日前には顔にまで拳が飛んできた。そのあとが腫れ、とてもお客さんの前に出る状態でなかった。
親仁さんは、彼女の話を聞くうちに思った。このままでは、Sちゃんの身体に危険が及ぶ。なんとか早く手を打たねばならぬ。そこで私への相談となった。
これは、すでに刑事事件の領域に入っている。
「それで、私への相談というのは警察沙汰にしたい、ということですか」
「いやいや、そんなことは彼女も望んではいません。彼女を亭主の暴力から救いたいのです。それには自暴自棄に陥っている彼に助け舟を出してやりたい。就職です。根は真面目な男だそうで、職にありつけば立派に立ち直ると思います。お知り合いの方に橋渡しをお願いできないでしょうか」
亭主が妻に暴力を振るうことを、今ではDV(ドメステイックバイオレス)といって厳しく罰せられる。当時はそのような言葉はないが、Sちゃんの場合は、傷害罪に該当しそうだ。しかし被害者がそれを望まないとすると、彼の職探しに協力するしか道はない。

   知人の社長にSOS
たまたま木工関係の社長をしているAさんに打診した。もちろん、すべてを話した。
「う−ん、女房いじめは困るな」
額に皺を寄せたが「ちょっと時間をください。あとで電話をいれます」
簡単にOKだった。耳を疑うほどの即決に驚く私にA社長は言った。
「倒産したあの会社のことは知っている。調べたところあの青年は前途有望とのことだった。我が社で欲しいくらいの人材と思う」
朗報はすぐに本人に届いた。Sちゃんの家庭には再び春が来た。彼女の瞳も前に倍して輝いた。
小野市の『いじめ防止条例』案では、DV、高齢者・児童虐待も含まれているとのこと。ただ、いじめ発見者に通報を義務づけるが罰則は設けない。早期発見・解決がねらいだからで、なかなか味深い条例である。“Sちゃん事件”が懐かしく思い出された。

(2007年10月1日)





――昭和天皇様に「お詫び」


  一冊の本がある。題名は『天皇とともに五十年――宮内記者の目』。著者は藤樫凖二さん。宮内庁記者として半世紀以上も活躍した毎日新聞の大先輩である。戦前、戦中、戦後ずっと昭和天皇を取材してきた目がつづる天皇観である。この本を企画・刊行した喜びもつかの間、大きなミスに気づいた。責任者としてどう対処するか悩み苦しんだ。

   いい本を出したい
 「富樫さん、ズバリいい本を出したい。ご協力願います」
パレスサイドビルの喫茶店でのこと。編集局から出版局に移って間もないころだ。
当時の図書第三編集部に籍を置く私を苦しめたのは刊行点数が少ないこと。予算編成が迫ると圧迫感で胸が苦しくなる。そんな時に富樫さんのお名前が浮かんだ。しかも、昭和天皇の「御座位五十年式典」が挙げられた昭51年(1976年)である。タイミングもピッタリ。
富樫さんは、大正9年以来宮内庁記者会員に在籍、大正天皇を取材すること6年、昭和天皇は即位からずっとである。昭和31年の新聞週間には陛下から表彰され、銀製御紋付たばこ入れを拝領するほどだった。
わが企画を受けてくれるか心配だった。お願い訪問のため事前に電話を入れた。
「私が社の方へ行きます。そこで詳しく話しましょう」
住まいは小金井だったが、自ら出てくるというのだ。この時すでに80歳の現役宮内記者だった。
  「人間天皇を浮き彫りに」
富樫さんは企画に大乗り気。
「私の古いメモ帳総動員で取り組みます」
うれしい返事にホッとする私に、さらに続けた。
「それこそ喜びも悲しみも50年という人間天皇を浮き彫りにしたい」 
 時間の経つのは早い。翌年夏だった。
「原稿を書き上げました。あす持参します」
待っていた電話である。こちらが参上するというのに「その必要はありません」。
400字詰め原稿用紙で約350枚。タイトルも決まった。編集作業は順調に進んだ。

   全編ににじむお人柄
「『いつの間にか五十年を迎えました』――金婚式のときに両陛下がお互いに白髪になられたお顔を見合わせながら、いかにも感慨無量に語っておられた。が、今や人生の喜怒哀楽をなめつくして、すっかり悟りを開かれていらっしゃるご心境ではなかろうか」
 第1章『ほほえましい私生活』の書き出しである。この章は、両陛下のむつまじい仲、陛下の誠実なお人柄など日ごろのお暮らしをほほえましくつづっている。
 構成は9章からなっているが、辛い戦争中のご体験は第2章の『苦悩――戦争と軍務』に活写されている。「陸軍には困った」とか、終戦詔書、初空襲の時のご様子がなまなましく再現されている。また第4章『人間宣言』では天皇ご留意の心境、地方ご巡幸で国民に数多く接触されようとお心を砕かれた陛下のご心境など、50年の宮内記者ならではの描写が胸を打つ。全篇を通して赤裸々に映像する人間天皇、それは昭和史の一断面でもある。
 装丁も品格ある内容にふさわしい出来栄え。初版8000部だが、(これはもっといけるぞ)内心大いなる期待感がふくらんだ。

   陛下がミス発見
 昭和52年11月20日、全国の書店に並べられた。売れ行きはどうか?気になる十数日が過ぎた。
 「お礼にこれから社に行きます」
富樫さんからの電話である。出版社ではどこでもそうだが、新刊発行前に10部著者に贈呈することになっている。富樫さんにもお届けした。富樫さんはそのうちの1部をすぐ陛下に謹呈したようだ。
例の喫茶店で丁重なご挨拶を受けたあと富樫さんの口調が急にかたくなった。
 「実は陛下があの本のミスを発見しまして」
 話す富樫さんの語尾が小さくなった。耳を疑う私。
 「えっ、どこですか」
 「写真説明です」
 本の冒頭3ペ−ジに写枚6枚を配し飾った。その1枚の説明に間違いがあったのだ。
陛下は、富樫さんからの謹呈本にすぐ目を通されミスを発見、側近を通して“ご注意”となった。
「マッカ−サ−元帥訪問の時は背広でなく、モ−ニングを着て行きました」
昭和20年9月27日、陛下がマ元帥をご訪問された歴史的にも有名な写真である。長身のマ元帥の右側(向かって)に立つ陛下。その写真説明が『背広姿』になっている。
この写真は、社内の調査部から借り出したもので、その説明が『背広姿』になっていた。写真を見ればモ−ニングであることは一目で分かるはず。それをそのまま『背広』にしてしまった不注意。弁解の余地なし。
すっと背筋に冷たいものが走った。
(しまった、どうしよう)
おそらく、私の顔面からは血の気が失せていたに違いない。
「いやいや、別に心配いりません。陛下にはお詫びしておきました」
直接ではなく側近を通してのことだろうが、私の表情をみて、心配した富樫さんは気休めの言葉を続けた。
「私自身、今までに何回も間違い記事を書き陛下からお叱りやご注意を受けました。今度のこと、すでにお詫びも入れてありますからご安心ください。ただ、一応ご報告だけはしておいたほうがいいのではないかと思って参りました」
私自身、この日まで気づかなかった。まことにお粗末。富樫さんと別れたあとも落ち着かない。著者はあのように言ってくれたが放っておいてよいか、自問自答を繰り返した。
(天皇陛下にミスを発見されるなんて最低だ。新聞なら輪転機を止めて刷り直しだ)
(本はすでに刷了し店頭に並んでいる。今さらどうしようもない)
(そんなことはない、回収すべきだ)
(その費用はどうする?莫大な損失になる)
(懲罰ものだな)
 かつて整理本部にいたころ、大きなミスで新聞を刷り直し会社に大損害を与えたとして、懲罰委員会にかけられた先輩のことが頭をよぎる。その先輩はすべての責任をとった。あの態度は立派だった。
(オレに出来るか)
答えは返ってこない。
(出版局長に相談するか)
 決断できないままその日は過ぎた。
翌朝、伊奈局長が現れた。局長席のそばまで行ったが足はそれ以上進まなかった。
 (局長に言ってどうする?局長にゲタを預けるなんて卑怯だ。編集責任は自分でとるべきだ)
ここから一歩も前に進めない。
悶々の時は続く。数日してまた富樫さんから電話があった。
 「本のことですが、ミスのことは忘れてください。もし増刷の機会があったら、その時に直してください」
先日の私があまりにも消沈していたので、それを気にしての電話だった。
発行したあと、ミスの指摘は1件もなかった。内部からも、外部からも。
(よし、重版の時に訂正しよう)
私の心は大きく傾いた。
出版社では、初版の足が早いと版を重ねる。その時まで待つことにした。しかし営業からは声がかからなかった。その後何年も。
来年は昭和天皇崩御から20年目。あの本を手にするとあらためて悔悟の念に責められる。                       

(2007年9月1日)

 


――学力テストで不正


 東京・足立区の学力テストで不適切な行為があったとこのほど問題になった。昨年度の同区テストが行われた際、区立小学校の1校で、校長と5人の教員がクラスを見回り、間違った答えを書いていた児童の答案箇所を指でさし暗黙のうちに、「ここが間違っている。考え直しなさい」と再考を促していたという。足立区では、学力テストの各校順位を発表し学校ごとに予算を傾斜配分していた。このため学校側が間違った競争心からこのような不正行為に出たようだ。
 このニュ−スを見て、我が小学校でも同じようなことをやっていたほろにがい思い出がよみがえった。

 全校一斉のテスト
 静まり返った教室。担任・S先生の皮スリッパの音だけが妙に高く響く。この日、全校一斉の数学テストが行われた。6年の予習組みだった私は答案用紙が配られた瞬間、(なんだ、簡単だ)と思った。
 10問を苦もなく解いた。そして答案用紙を裏返してしばし得意げに左右を見回していた。ほかに数人が同じように解き終わっていた。そのときS先生が言った。
 「答えには間違いもあるものだ。書き終えたひとも、もう一度じっくり検算するように」
 言われるままに私も検算に入った。といっても、さっと目を通す程度のものだった。再び机と机の間をスリッパの音が行き来する。その音が私の横を通りかかった。ちょっと先生は止まった。座っている私の横に立っている先生の姿がいやに大きく感じた。すると、先生の右手がすっと伸びた。その人差し指が答案用紙の3問目のところで×を示した。一言も言わずまたスリッパの音は前に向かっていった。
 (しまった、間違いを教えてくれたのだ)
 急いで問題の3問目に集中した。しかし同じ答えが出てしまった。
 (おかしいな、確かに先生は指に力をこめ×を書いた。どうしよう)
 それまでの自信が吹っ飛び、あせりの気持ちがふくらんできた。
 もう一度やり直した。また同じ答え。間違っているのに正解が出ない。なんでだろう。だんだん時間が迫る。やむなくいったんほかの答案に目を移し、頭を休めた。そして深呼吸した。それからあらためて3問目に挑戦した。
 「あっ、これだ」。すぐ誤りを発見した。ちょっとした計算ミスだった。
 テスト終了のベルが鳴った。

   100点の答案に暗い影
 我が町はS県の北端にある。小学校は町内にひとつしかなかった。7クラスに分かれたが、6年生になるとき旧制中学校進学者だけを1クラスにまとめ進学に備えての特訓が行われた。これを予習組みと言い、全学年の1割弱で30人だった。ほかの大半は高等小学校へ進み、さらに2年間同じ学校で学んだ。
 それだけに、予習組の生徒のほとんどは学年全体での成績が上位にあった。授業も夜間まであり、他のクラスとは別に臨時テストを絶えず受けみんなテスト慣れしていた。今回のような学校全体のテストは「100点とって当たり前」と、周囲からも見られていた。
 採点結果が発表された。予習組み30人中28人が100点、2人が1問ずつ間違え90点だった。平均点は99・3で、もちろんトップ。しかし全員100点を目指していたS先生はご機嫌斜め。
 「このクラスは、あの程度の問題なら全員100点をとれる実力を持っている。それができなかった。極めて遺憾である。なぜできなかったか、高杉答えてみろ」
 いきなり私を名指す先生。これには驚いた。もじもじしながら立った私は小さな声で答えた。
 「よく検算しなかったからだと思います」
 「よし、そのとおりだ。テストの時間に、先生はみんなに言ったはずだ。『出来たと思っても間違いがあるはずだ。よく検算しろ』とね。あの時、先生の言うことを聞いて間違いに気づき100点をとった生徒もいる。よい教訓にするように。
私の額は汗でぬれていた。

   先生の過熱
S先生は学校内では優秀な先生として自他共に許す存在だった。そのため3年前から予習組みを担当することになった。すると、その翌年からの進学合格率が急上昇し他校からも注目されるようになった。
こうなると先生としてはさらに高い目標を掲げ、生徒への特訓も過熱状態になった。他校、あるいは他クラスとの間で行われるテストには異常と思われるほどの闘争心に燃えるのだった。
今回のテストでもその“功名心”が、誤り指摘の指さしになったようだ。
時は流れた。還暦を過ぎたころ、S先生を囲む同窓会が開かれた。それぞれがそれなりに成長していた。酔うほどにある友が言った。
「オレ、S先生が大好きだ」
「今でもか」
「もちろん。S先生はオレのデキがあまりよくなかったので、よく見てくれた。こんなこともあった」
そこで彼が話してくれたのが“指さし”だった。彼は予習組み時代に10回近くその“恩恵“に浴していたようだ。
「オレも」と言いかけた私はその言葉を引っ込めた。得々と話す彼は50年以上も経った今でもその先生を尊敬している。「彼だけのS先生」と思っているその領域に踏み入りたくなかったからだ。
成績至上主義のS先生は順当な道を歩み、母校をはじめ周辺の校長、やがて教育長までつとめた。周囲もそれに異をとなえるものはいなかった。
宴たけなわのころ、S先生の席へ銚子を持って行った。思い出の一つとして“指差し”にふれた。
「そんなことがあったか、覚えていないな。なにか君の勘違いではないか」
返杯の盃をいただいた。にがい味だった。

(2007年8月1日)

  
 




――納得できない判決

   元静岡大生に高裁も「無期懲役」
 義妹ら(井本嘉久子と同僚・竹内真知子さん)2人を殺害したとして静岡地裁で「無期懲役」(求刑・死刑)の判決を受けた元静岡大生・高橋義政被告に対する控訴審判決が、6月14日東京高裁であった。大野裁判長は一審同様「無期懲役」を言い渡した。遺族席で2審を毎回傍聴した私は、判決の瞬間、心の中で異をとなえた。
 なぜ「死刑」を回避したのか。
 さきにもこのコラムで取り上げたが、私は死刑廃止論者だった。しかしこの事件に直面して以来、「極刑」存続の必要性を痛感した。単なる私情ではない。人間の命の尊厳を最優先したいからである。これを犯した罪は償うべきである。もちろん、殺人事件も多種多様である。そこに情状を汲み入れるケ−スも当然あり得ると思う。しかし義妹ら2人の殺害には、「その必要なし」と断じたい。遺族(その一員)として事件を検証した。
 
   「計画的でない」の判決理由
 2005年(平成17年)1月28日午後5時過ぎ、高橋被告は静岡市内のSクリニックを訪れた。かつて母親のように慕っていた女性がこのクリニックに通院していたが03年に病死した。そのことを恨み院長の殺害を狙ってのことだった。
 たまたま院長は出張で留守。同じ建物内の健康食品販売所に勤務する被害者2人を口封じのため殺害、金庫内の現金6万余円を奪って逃走した。捜査線上に高橋被告が浮かび事情聴取、逮捕となった。事件発生から3日目だった。彼は頑強に犯行を否認し続けたが静岡地裁での初公判直前になって一転、犯行を認め法廷でもその供述は変わらなかった。
 一審、二審ともに「刑事責任は極めて重大」としながらも「無期懲役」とした。その理由に、私は次の3点から疑問を抱く。
 まず、「犯行は計画的でない」としていることである。
 彼は院長殺害を計画しその機会をうかがっていた。凶行前日もクリニックを訪れたが、実行出来ずに帰宅、それを強く後悔し翌日決行を再決意した。そして当日。
 すでに建物内の下見はすんでいる。迷うことなく1階入口ドアから侵入した。クリニックは午後5時までの勤務で、1階には誰もおらず2階に向かった。そこには健康食品関連の販売所があり、殺害された2人が残業をしていた。ナイフを突きつけ院長の所在を聞いたところ、出張中で2日後まで戻らないことを知った。
 ここで彼のナイフは2人への凶器となった。最初に同僚を捕らえ頚部を腕で締め付けるなどして気絶させた。その上ナイフで前頚部を切り裂いて失血死させた。さらに義妹から現金の保管場所を聞き出し同様の方法で殺害、現金6万6000円を強奪した。
 この流れを見て、「計画的でない」と言えるだろうか。もちろん、最初は院長殺害が目的で2人殺害は計画に入っていなかったであろう。それゆえ2人殺害は計画的でない、ということになるのだろうか。逆に彼はこういう事態もあり得ることを予知していたと考えるのが常識的ではなかろうか。
 なんとなれば、侵入時刻はクリニック終了間もない午後5時を少し回ったころだ。この時間帯では内部関係者が残っていることは想像できる。それに備えての計画も出来ていたと思う。ナイフを懐にしのばせ、周到な計画のもとに押し入った彼。発作的・偶発的な殺人事件の領域には到底入れられない。
 計画的殺人か否かは量刑に大きく響くようだ。その点からしても、重要なポイントの一つと言える。
 
   情状に疑問
 次に、高橋被告の生い立ちにかかる情状である。彼は幼いころ父親から虐待を受け、それが心の傷となった。その不遇な境遇を情状面で取り上げていた。弁護側は一、二審ともにここを強調し裁判長の心を動かしたようだ。
 被告の成長過程でのトラウマは分かるが、だから人を殺めてもよいことにはならない。彼は子供ではない。すでに大学教育を身につけ社会に飛び立つ寸前であった。誤った価値観・社会観を許すわけにはいかない。
 裁きにも温情は必要であろう。しかし今事件に関しては2人の犠牲者が出ている。全く恨みを受ける理由のない善良な市民が惨殺された。それも口封じのために。被害者のその時の恐怖・無念さは想像を絶するものだったろう。
 そこに思いを馳せる遺族としては、復讐の念禁じ難いものがある。しかし、法治国家の一員としてそれは許されない。司直の手に委ねる以外に道はない。その願いが届かない判決には抵抗を感じる。
 情状は裁判長の心でもある。被告へ向ける心を否とはしない。しかしその一方で被害者と遺族へ向ける心にも灯をともしてもらいたい。

   偽装の謝罪?
 3つ目に挙げたいのは、高橋被告の事件に対する態度である。
 彼は院長不在を知って凶行に及んでいるが、罪悪感を持たなかったのか。そこには「自分を守る」ことしか考えていなかった、と私は言いたい。捜査陣の聴取にも否認を続け、乱暴な行為までしている。一審はそれを取り上げなかったが、二審は「公務執行妨害」「器物損壊」として検察側の主張を認めている。
 その後の取調べでも犯行を認めなかった。改悛の心が芽生えれば、罪を償う気持からすべてを告白するのが自然であろう。初公判直前になって急変したのはなぜか。私はこう推測する。
 捜査陣は、彼の犯行を裏づける有力な物的証拠をそろえた。それを(弁護士を通じて?)知っ高橋被告は、「犯行否認は極刑に通じる恐れあり」と知った。犯行を認め、反省することによって“窮地脱出”を考えた。反省と否認を続ける被告とでは、雲泥の差がある。有罪に足る証拠がそろっている場合、後者には厳しい量刑がかかってくるであろうことは想像に難くない。
 静岡地裁で結審が近づいたころ被告は裁判長に発言を求めた。
 「遺族の方にお詫びを言いたい」
 裁判長の許可を得た彼は傍聴席の遺族に向かい土下座をして謝った。これは裁判長の心証を良くしたと思われる。竹花裁判長は一審判決理由で「極刑に処するには躊躇を感じざるを得ない」としている。
 私はこれを“偽装の謝罪”と解釈したい。
 二審の法廷で彼の一挙手一投足を注意深く見守ったが、改悛の表情はうかがえなかった。被告は(裁判長席に向かって)右側の出入口から法廷に入る。遺族席は傍聴席最前列の右側からいつも数人座っていた。入廷した被告はすぐその前を通る。ここに遺族がいることは分かっているはずだが1回も頭を下げたことはない。退廷時もそうである。頭を下げて欲しいわけではないが、その念があるならば心に通じる。私にも他の遺族にもその情は伝わってこなかった。
 「無期懲役」はやがて出所の日がくる。改悛を装った人間が自由になったとき、私は慄然たるものを感じる。
 東京高検は6月26日、上告の手続きをとった。あとは最高裁の判断を待つのみである。

(2007年7月1日)




――禁煙に妙手あり

 

 5月31日は今年の世界禁煙デ−=世界保健機構機構(WHO)=。それに先立ちWHOは29日、受動喫煙の害を防ぐため、飲食店を含む公共施設や職場を全面的に屋内禁煙にするよう勧告した。各国政府が法制化し、順守を徹底させるよう求めている。
 一方、、『禁煙ツア−』なるものが6月16−17の両日山梨県・清里高原で行われるという。JTB国内初の試みで、欧米では95パ−セントの成功率をあげているそうだ。
 紫煙との闘いもここまできたかと感じ入ると同時に、我が禁煙体験を再現してみたくなった。
 
   禁煙・禁酒どちらにするか
 最初にことわっておくが私は1日100本のヘビ−スモ−カ−だった。愛用していたのは『憩』という20本入りフィルタ−なしの両切りタバコである。これを指が熱くなるほど根本ギリギリまで吸った。おかげで人差し指と中指はいつも黄色く染まっていた。その超愛煙家がぷっつりタバコとの縁を切ったのだから、周囲から「奇跡の男」とまで言われた。
 昭和36年(1961年)夏にその“奇跡”は起きた。
 8月のある朝、二日酔いで頭はガンガン、胸がむかつき目がさめた。枕もとの水を飲むや吐き気がどっと来た。
 トイレめがけて飛び起きたが、その手前で口から勢いすさまじき“堤防決壊”。いったんおさまったが、30分ぐらいして第2波、また3波、4波と続く。ついに胃の中は空っぽ、胃液まで出してしまった。それでも吐き気はおさまらない。辛いので水を飲む。その水も受けつけない。やっとおさまった時には“廃人”同様。
 1升酒でも乱れず自他ともに許す“酒豪”だったが、こんな経験はは初めてである。前夜、友人と三次会まで流れた報いであった。この夜は酒だけでなく、タバコも無茶苦茶に吸った。いつもの100本を8本もオ−バ−していた。
 酔いが醒めて自問自答した。
 (このままだと体がダメになる。酒・タバコのどちらかを止めよう)
 (どちらも止めたくない。ともに量を減らすことにしよう)
 (ちょっと待て、そんな中途半端なことでは両方ともに崩れてしまう)
 (酒は対人関係があるから、大切にしたい)
 (そうだ、仕事をスム−ズにこなす上でも酒は必要だ)
 (そうなるとタバコを止めなければならない)
 (やむを得ない。これは自分自身で解決ができるからな)
 決まった。その日から私の生活は変わった。
 
   禁煙へ3つの誓い
 かつて2回ほど禁煙を試みたことがる。いずれも結果は惨敗だった。しかし今度はその轍を踏めない。健康がかかっている。そこで3つのことに心がけた。
 1、タバコへの未練を捨てること
 愛煙家はしゃれた喫煙道具に目がない。私も『憩』を手にする前は、パイプを多用した。そのパイプ5本を交互に使い、暇さえあれば磨いていた。吸うほどに、磨くほどにしぶい“つや”が出てくる。それを他人に見せ、悦にいっていた。両切りに移った時、4本を友人に贈ったが一番お気に入りのパイプだけは記念に残しておいた。ブックエンドに飾ってあったそのパイプをまず手放した。
 「ありがとう 我が愛するパイプ さようなら 紫煙よ」
 そう書き添えて後輩の手に握らせた。
 両切りに切り換えた時に知人からいただいた金縁のシガレットケ−スとも惜別した。これも思い出いっぱい。そっと机の引出しにしまいかけたが、思い直してサラバした。ケ−スの中に残っていた12本が得難いものに見えた。今でも脳裏に深く刻まれている。
 その他、灰皿をはじめタバコに関するものはすべて身の回りから消えた。

 2、タバコに代わるものを探せ
 禁煙と同時に孤独を感じた。何をするにも「まず一服」で始まった私だけにこの寂寥感は辛い。それと口寂しさである。これを慰めるものとして飴玉を選んだ。そして仁丹、チュウインガム。
 3、酒に酔った時は要注意
 かつての2度の禁煙失敗は、酔い過ぎによるものだった。酒席で出された“洋モク”「ラッキ−・ストライク」に目がくらみ手を出してしまった。当時、洋モクは日本タバコより香りも味も良く愛煙家羨望の的だった。しかし闇ル−トでしか買えない。その20本入りをある席でいただいた。
 (禁煙中である。手にするな。誰かにあげるなり捨ててしまえ)
 (宝のようなこの品、捨てるにはもったいない。どうするか後で考えよう)
 我が心の中での葛藤、ついにポケットに入れてしまった。酔うほどに
 (1本ぐらいならいいだろう)
 これがいけなかった。もとに逆戻り。2度目もやはり酒で失敗。
 今度こそ「用心に用心を」
 自らに言い聞かせた。
 
   誘惑は周期的にくる
 難関は第2点の「タバコに代るもの」であった。タバコの虜になった人間の弱さを知った。飴玉を一日中しゃぶってはいられない。仁丹も数粒を口に放り込むと気分は爽やかになるが続かない。チュウインガムはどうやら口寂しさには向くが限界がある。やむなくこれら3種の代用品を交互に使うことにした。
 禁煙スタ−ト、第1日は無事に過ぎた。「吸いたい」誘惑は間断なくやってくるがこらえにこらえた。
 「えらいぞよくやった!あしたも頑張れ」
 ふとんの中で手を合わせた。
 第2日目が明けた。目覚めの一服はたまらなくうまい。でも、タバコも灰皿もない。仁丹をかじった。口の中がス−とした。そして水を飲んだ。これは結構いける。
 食後のタバコといきたいが、ぐっと我慢してチュウインガム。「かむことは健康にいい」どこかで聞いた言葉が浮かんだ。原稿に取り組んでいる時にタバコが恋しくなる。飴やガムでは格好悪い。仁丹をかんでお茶を飲む。ふっと名見出しが飛び出す。
 こうして3日経つ。この辺でまた強い誘惑。ここを乗り越えると1週間、すると3週間、1カ月、3カ月、6カ月、1年、3年――。
 こういった周期で試練の波は押し寄せる。波乗りうまく3年を過ぎたところで周囲を見回すと、もう波静かなる“禁煙の湾内”に錨をおろしていた。
 節煙をすすめる先輩もいたが、私はウンと言わなかった。「中途半端は成就せず」が信念だからである。そして「禁煙はその人の心次第」。
 そう私は言いたい。
(2007年6月1日)





集団見合いの珍事

 今年も大型連休が始まった。目にしみる新緑、さわやかな風、深呼吸するたびに、五体を流れる血潮が騒ぐ。これは幾つになっても同じで、若やいだ気があふれる。アルバムを開くうちに50年以上も前に撮った写真が現われた。記者仲間と藤の花の下で酒を酌み交わすわが独身時代。懐かしさと共にほろ苦い記憶がよみがえった。

   酒盛りを兼ねての取材
「大連休はどうする?」